文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

天使と人間

 文芸評論家として始まった柄谷行人の思想はその後、論理的批評家そして哲学者へと変遷してきたわけだがテリトリーは広大かつ深遠だ。私は彼を読解する軸は『内省と遡行』という奇妙な作品のあとがきにあるとみた。デビュー作が原点とは限らないのである。この作品は、外部(のちの他者論に通じるもの)を希求するのであるがそこで2つのことを決めた。まず、外部をロマン的詩的に語ることは禁じた。それはもっとも安易で不毛な結果に終わるからだ。もう一つはそれを自明視するのも避けた。なぜならそれは内部(独我論)に属してしまうから。そのために自らを窮屈な場に閉じ込めそれを自壊する方法を選んだのだ。

 

 はじめは柄谷はこの書を体系的に完成させようとしたが、結論に至ることはなかったため窮した果てに未完の論文として出版するに至ったのである。柄谷は自分のことをプラトニストと自嘲していたが、つじつまを合わせることで完成させることを拒絶したのだ。無念であったろうが、5年後に文庫本化されたもののあとがきをよく読んでみよう。 

 

 先日、ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』をみて、『内省と遡行』以来の自分の仕事のことをぼんやりと考えた。 これは天使が、人間の女に恋して人間になるという話である。物語としては古いパターンであるが、ただこの天使たちはベルリンという都市の人々を見守ってきて、しかもベルリンがナチズムとスターリニズムのもとで荒廃するにいたるまで、無力でしかなかった天使たちなのである。つまり、天使として描かれているけれども、彼らはある種の人間のことだといってよい。それは、実践家ではなく、認識者であり、しかもどんな人間的実践にも物語にも幻滅したがゆえに二度とそれに加担することがなく、ただ実践が何も生み出さないことを確認するためだけに生きているというようなタイプの認識者である。

 天使たちには、地上の人々がどこにいようが見えるし、彼らの内心の声がすべて聞こえる。しかし天使たちは何も「経験」しないし、「知覚」しない。彼らが把握するのはいわば「形式」だけなのだ。彼らは人間の歴史をずっと見てきているが一度も生きたことがない。さらに彼らにとって歴史はたんに形式の変容でしかなく、何事もそこでは起こらない。つまり、歴史は存在しないのである。映画では彼らの世界はモノローグで描かれており、主人公の天使ダミエルが人間になったとたんにカラーに転じる。彼は自分の流した血を見て初めて色彩を経験するのだ。むろん色彩は一つの例でしかない。それはいわば「形式」の外部を経験するということである。

 天使ダミエルは人間になろうとする。それは天使たることの放棄であり有限で一回的な世界に生きることである。人間になるとは彼にとって、他者(女)を愛することである。そのとたんに彼は前方が見えない世界の中で生き始める。それは「暗闇の中での跳躍」である。天使たることとは何たる隔たりであろう。にもかかわらず、天使たちは人間になることを欲する。それは「外部」を経験するということである。

 

 形式的であること、それはいわば「天使」たることである。しかし現代の形式主義プラトン主義のように永遠を志向しているのではなく、もはや歴史が何一つ質的に新しいものをもたらしえないのではないかという疑いとつながっている。たとえば、われわれはいまだにブルジョワ革命が提出した理念をめぐって争っている。それを超えたつもりの「社会主義」はそれより後退してしまう。すると、われわれはヘーゲルのいうようにナポレオンとともに世界史は終わったというべきではないだろうか。むろんそういいうるのは、ヘーゲルの後の不毛な「歴史」を経験してこざるを得なかったからである。

 たとえば、「構造主義」とよばれた思想は歴史がもはや終わっていること、単なる形式的変形以外に意味などないことを宣告するものであったといっていいだろう。それはたんに反歴史的なのではなく、それ自体歴史的な認識であった。それは決して抽象的な話ではない。それはベルリンや広島で起こったことを考えるとき現実的な話なのだ。「天使」たることはすでにわれわれの願望ではなくて、生の条件なのである。

 いいかえると、「形式的」であることは別に特権的な事柄ではない。それはハイテク時代においてわれわれほとんどの日常的といってよいような生の条件である。われわれはそこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になっているだけで、実は天使と同じくモノクロームな世界、すなわち自己同一性の世界に閉じ込められているのである。私たちはブラウン管を通して血まみれの死体を見慣れているが、実際に血の色を見たことがないのだ。

 

 しかし、「天使」たることは不可欠でありかつ不可避的である。われわれはいちど徹底的に「形式的」となるのでないならば、「人間」にはなれないだろう。形式主義とは人間主義の死である。だがそこで初めて新しい「人間」について語りうるかもしれない。有限で一回的なこの生を肯定しうるような「人間」について。それはもと「天使」であったはずである。 

      『内省と遡行』文庫本のあとがき

 

 柄谷行人の著書は理解するのに苦労する。それにもかかわらず、私にとっては何度も読んでみたくなるものであった。ところが学校の課題で読書感想文というものがあるが、それはテクストを理解していることが大前提となっていて、それに関してどのような好感の持てる感想を書けるかが問われるにすぎない。私は読書というものはもっと誤読があってよいと思う。否、真偽の問題ではなくそれは多様な解釈を許すものなのだ。感想よりも、要約に重点を置く方が貴重な体験ができるはず。私はこの柄谷の著作の中でも難解といわれる『内省と遡行』、これを書いた真意をしばらく掘り起こしていきたい。