文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

家族について

1.近代家族の特異性

 家族に対し嫌悪感を持っている人たちはそこに「愛情という名の束縛」に苛まれているからではないでしょうか。近代家族は自明視されすぎていますが、たかだか19世紀末の産物にすぎません。それがいびつであるのは丸山真男のいう民主化した個人がもたれ合うからです。集団に対する個人の意識・態度には4つあると前に述べました。どっぷり埋没した民主化した個人(個というべきではないが)、そこから疎外された個人、そこに背を向ける超越者、その中に入りながらも関係を持とうとする単独者。

  

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  もちろん多数派はリーダーや人気者を含む民主化した個人です。そもそも多数決の原理が働くのですから。ただし普通選挙のような秘密投票は特異なパターンで、実際は顔が見える場で拍手や挙手という意志表示が行われるわけですね(自由の根底は匿名)。こうした場では、まともに自分の意見をいう人は限られる。会社で真っ当なことをいえば家族が路頭に迷うことさえあるのです。出る杭は打たれるのだから周りと同じことをするのが無難というわけですね。

 

 皆さんの多くが体験しておられることでしょうが、民主化した組織とはこのように風通しの悪い場ともいえます。これは超越者にとっては嘲笑の的であり、自立した個人つまり単独者には退屈以外の何物でもない。スケープゴートはここに食らいつこうとするが、彼らは排除されることでこの組織は強固になります。

 こうした構造は家族にも当てはまると思います。共同体というのは共通の規則をもっています。会社ですと、営利目的(日本の場合好き嫌いも左右されるのでややこしいのですが)ですのでドライに対応できます。ところがそれが家族ですと愛という情念に支配されてしまう。この規則がマテリアルでないので、退屈か真綿で首を絞められるような気になりませんか。思い出してください。集まる機会があれば、幼少期・少年少女時代の思い出話かプロ野球あるいは旅行、、。要はあたりさわりのない無難な話題になる。単独者が好む反対意見なるものはなく単に趣味の違いが出てくる程度なのです。

 

2.近代家族の存在意義

 近代以前の家族は主に農業の経営体としての要員で構成されていました。江戸時代に入って稲作が本格化すると多くの人手がいりますから子供はそのためにつくられる生産手段だったのです。ところが中期の18世紀に入ると急激な人口増で彼らを養うことが難しくなります。地方の藩では次男三男は江戸に追い出された。奉公の終了理由が死亡であるというのが藩によっては4割近くあったそうです。これに関する調査をおこなったのが速水融という歴史学者ですが、彼曰く「姥捨て山はなかった、あるのは孫捨て都市」だと。所詮家族というのはそのようなもので、自然を相手に闘うためなりふり構わずつくられたのです。

 

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

 

  それでは、近代家族の意義は何か。これを見定めないといけません。夫がオフィスまたは工場で働き妻は育児と家事、子供はその夫婦としてでないと認知されない。そうして血の繋がりが第一義に置かれるようになったわけですがこれは明らかに国策です。家族⇒学校⇒会社員この流れは国家にとって税収という点で見ると最も都合がいいからです。家族愛などとは後でつけられた幻想にすぎないわけですね。

 

 元NHKアナウンサーの下重暁子さんは「家族という病」を出版されていますが、これにはほとんど共感しました。「一家団欒における食卓で主役は誰だと思います?」の問いに対してそれは「カラーテレビ」と答えられています。人間でないのですよ。メンバーは<家族>という集合を維持するための要員にすぎません。まあ愛情を確認し続けるだけの単純なものですが。にもかかわらずこの窮屈な場から退場するものは愛がないとか言われる。

 

家族という病 (幻冬舎新書)

家族という病 (幻冬舎新書)

 

 

 繰り返しになりますが、家族は砂上の楼閣なのです。自然はカオス、世界は多中心で あり人々はそのうえで生きるすべをもがきながらも築いた。ところが近代家族においてその存在は必要でなくなりました。愛という名のもとで辛うじてつなぎとめられているに過ぎないのです。

 

  私は前の記事で60年代のアメリカで黒人が暴力的差別・凌辱を受けながらも何十年とかけて新たな家族、新たな黒人と白人を創ったといいました。

 

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 相対的他者に対峙したとき、その不安定な場所で遭遇したとき 、共通の規則を持たないため暴力的行為が起こるかもしれない。60年代のアメリカで黒人差別の抗議デモが過激化したのですが、リチャード・ライトという黒人作家は憤懣をあらわにし抗議小説にその思いを託しました。それに対し、ボールドウィンは民主制度を求めたところで抽象的な法的存在と単純な労働力商品が産まれるだけと言い切ります。このことはそもそも家族は利害関係から始まり愛情というものは後に育まれるものだということですね。

 

 個としての関係をもつことは、民主化した者たちの価値基準<快―不快>より個々の主張として<真―偽>が重要になるであろうし、倫理的価値<善―悪>が要求される(既存の道徳とは違い、個人に根ざしたもの)。

 

 

 

最後に学生時代の読書会で読んだ近代家族を詳しく論じた書を挙げておきます。

 

21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)

21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)