文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

現実とは何か ~柄谷行人と考える

1.想像物にすぎない現実

「これが現実だ」と悲観的あるいは独断的に語る現実は現実ではない。私が一番腹立たしく思うのは、<現実>にどっぷりつかった現実主義者だ。右も左もわからない社会に出たての若者あるいは少しひきこもっている人に、したり顔で社会の厳しさを説くのだがそれが居酒屋などで行っている光景は辟易してしまう。

 

 ついでにもう一ついうと、うだつの上がらないサラリーマンの自己正当化、和解する現実がある中流と思っている彼らが想像物でしかない現実を受け入れている姿は残念でならない。なぜこれを入れるかは理由がある。動画サイトで「いいじゃないか男だ!」という地元のテレビ局職員が作った唄が動画で流れたときは情けなかった。

 (よっしゃ~もうひとふんばり!頑張るぞ!オーッ!)

頭をさげてさげてはげて 汗まみれ雨の日も風の日も

髪ふりみだし

いいじゃないか男だ 命を燃やしてきた証だ

 

夢を見た描いてた形とはちと違う 身体じゅうムチャのつけたまってる

すぐ泣けてくる

笑い飛ばそう男だ バカ正直に生きてきた笑顔で

 人が作った歌に難癖つけるのはもっとも野暮だと最初に自己批判しておこう。しかし、この歌詞にでてくる男たちはおそらく40過ぎの先が見えかかったサラリーマンなのだろう。ただこのようなすがすがしい態度の前に本当の現実は姿を現してくるのだろうか。現実を矮小化している者たちの前に。「いいじゃないか」とか「馬鹿正直に生きてきた」というのは<現実>に対する和解なのだ。曲にもいろんなジャンルがある、これはフォークソングと呼ばれるものの一種なのだろう。だが、本質はエンターテイメントのなだから、ウソでも演技でももっとカッコよくあってほしかった。

 

 以前に、個人のタイプをおおざっぱに超越者、単独者、民主化した個人、仲間はずれ(スケープゴート)の4タイプに分けた。

 

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  この歌を歌う労働者たちは肩を組んで称えあう。このような風景に対し異和を感じるのが超越者(のつもりでいい)と単独者であろう。

 

 

2.文学者的(単独者的)な現実

 私が信じる現実は自己の根拠を脅かす場所だ。そしてもう一つは超越した場、遊離した場からそこに入るや全く予期せぬ言動、行為を行ってしまう場所のことである。前者はこれは何度も引用しているものだが、坂口安吾のエッセイで「文学のふるさと」というのがあるが、ここで語られているふるさとというのは"現実″なのだ。

 ある農民作家が芥川龍之介のもとにやってきて、貧乏ゆえに子供を殺しドラム缶に入れて焼いたというような話の原稿を渡した。芥川は「実際、そんなことあるのかね。」と尋ねると、この作家は「自分がやった」のだといって放心状態の芥川に対し優越感を抱く。 

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 坂口安吾は、思い上がった農民作家に現実は見えていないとはっきりいう。そして、つき放たれた芥川こそ現実の姿に出くわせたのだと。芥川は‟現実””生活”に根を下ろそうとした単独者なのだ。

 

 

  もう一人の文豪を挙げておこう、森鴎外の『高瀬舟』だ。これは教科書によく出題されるが批評家柄谷行人曰く、これほど誤読されている作品はない。主人公が、病気で苦しむ弟を殺し、島流しの刑に遭うのだがこれは安楽死の是非を問うものではない。

 安楽死の是非などというものは、机上の問題にすぎない。喜助は、殺してくれという弟の願いと殺すなかれという法との二律背反の中で、殺す方を選択したのではない。彼は「夢中で」殺してしまったのだ。そこから考えると、「二律背反」とか「自由意思」とか「選択」というものは行動をスタティックにみるところからくる仮構にすぎないといってよいのである。「政治と文学」や「芸術と実生活」の二律背反というような問題の立て方は、現実に生きている人間の代わりに抽象物を代置させることでしかないが、その種の論者が、鷗外の中にありもしない、‟矛盾”を見出してそれを止揚させたりなどしているのである。

         「歴史と自然」 柄谷行人

 現実というのは意図しなかったことを行う場所であり単独者だけが見出す歴史的出来事なのだ。喜助にとっては弁護も非難も疎遠であって、島流しにされる時の晴れやかな顔は自由意思でなく、やってしまった行為を受け入れることを決めたからだ。

 

 

3.超越者たらんとするものに見える現実

 現実の世界は主に貨幣、数字、言葉で成り立っているがこれは人間の意志を離れて生成しているものだ。(たとえば、自然数について興味深い文献を発見した。英文だが興味のある方は参照してほしい。)ソシュールという言語学者は「言葉に意味はない。差異があるだけだ」「言語は言語についての言語」といった。これは人間が自由自在に使いこなせる道具ではないということだ。数字についてもそう、貨幣も然り。

 

 私は柄谷の著作から彼の人生をずっと後追いしている。70年の三島由紀夫事件、そして右翼左翼の急進主義にも全く現実感を得られなかったという。当時彼は外交的なアンガージュマン作家(五木寛之丸谷才一)らを横目に、内向的とひとくくりにされる古井由吉や後藤明夫らに着目していた。政治参加している作家が本当に希求すべきは「内部の豊饒さ」だったのであり、そして内向的というのは自閉とは全く関係がなく現実に触れようとする方法なのである。このようなことをいった後、柄谷は少し気になることを書いている。

 危機はわれわれが「現実」に背を向けてしまっていることではない。危機はむしろ、われわれが過剰なほど「現実」に接触していながら、その底で致命的なまでに「非現実感」に蝕まれていることだ。しかし、私は外界が何か恩寵のように向こうから否応なく迫ってくることを待機しているわけにはいかない。われわれがなすべきことは、現実を回復する道を自らの「方法的懐疑」によって切りひらくことである。少なくとも氾濫する事実や情報をひとたび括弧に入れる明晰な意志をおいて、「外界への道」は絶たれている、と私は考える。

 これは、単独者の立場ではなく超越者たらんとする立場といえよう。柄谷行人は数年後、かなり抽象的・理論的な仕事に没頭し奇妙な作品に取り組んだ。それが『内省と遡行』『隠喩としての建築』という疲労困憊のすえ未完として終わったものである。

 

 その後、1984年からはウィットゲンシュタインの批評を始め、他者に関する論説を繰り広げたのだが、柄谷の作品の中では幾分解りやすい。ソ連は残っていても実際共産主義という大きな物語は消滅していた、現実に起こる諸問題は相対的立場(単独者の立場)で揚棄するしかないというのだ。だが、現実にソ連が崩壊したときはそうはいっておられず、これまで軽視していたカントを再読し統制的理念を唱えるようになったのだがここでは触れない。

 

 私が、柄谷行人に敬意を表すのはほとんど読まれることのないような『内省と遡行』『隠喩としての建築』を通過したことにある。彼は、『内省と遡行』のあとがきでこう言っている。

 私は積極的に自らを<内部>に閉じ込めようとしたといってもよい。この過程で、私はふたつの事を自分に禁じた。一つは、外部を何かポジティブに実体的にあるものとして前提してしまうこと。なぜなら、そのような外部はすでに内部に属しているからだ。それは、主観性を超えるどんな外的な客観性も、それとして提示されるならば、すでに主観性の中にあるというのと同じことである。第二に、いわばそれを詩的に語ること。なぜなら、それは最後の手段だからだ。そして実際には、ありふれた安直な手段だからだ。私は可能な限り厳密に語ろうとした。いかなる逃げ道をもふさぐために。

 困難はこの二つの拘束から生じている。しかし私は不徹底且つ曖昧な言説にとどめをさすために、この不住で貧しい道筋を積極的に選んだ。したがって私は「内省」から始める方法において可能なぎりぎりの事をやったという自負がある。

 

 

 

文学のふるさと (青空文庫POD(大活字版))

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山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

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内省と遡行 (講談社学術文庫)

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