文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

沈黙

1.文学者の闇の消滅

 ものを書いているとき、私はいいようのない「不快」に襲われる。それは虚しいとか、何のために書いているのかといった空虚感ではない。それは書くということを私が創造したわけではなく、たんに発見したにすぎず、そして私のやっていることはただそういう既成的な枠組みを下手くそになぞっているにすぎないのではないかという思いだ。要するに私は「人間」ではなく「存在」にすぎないのではないか。

            精神の地下室の消滅

 

 60年代、高度成長期における経済的余裕から、これまで見向きもされなかった吉本隆明三島由紀夫書物が手に取られるようになりました。この二人の思想というものはそう簡単に理解、消費されるものではないし、彼らもはじめから期待もせず諦観しながら書いていたのですが、事実よく読まれたのです。

 

 問題は、「地下室」にいる彼らを陽の当たる場所に導いたことだけではありません。地下室、闇そのものを消滅させてしまったことです。資本主義市場の場で乾燥させてしまったといえばいいのでしょうか。

 

 上に引用した文は、1971年11月1日の読売新聞での柄谷行人の論説です。これは当時、ヒロシマやオキナワについて告発するアンガージュマン作家が巨万の富を得、埴谷雄高の持つ「闇」を適度に薄め一般者向けに売っている五木寛之がベストセラー作家になっていることへの不服です。三島由紀夫の自刃にはいろんな理由が挙げられていますが、私は保守派が担ぐような姿勢からきたのではないと思います。ただ絶望したのでしょう。彼の思想が矮小化されていくことに。余談になりますが、平野啓一郎という作家は三島に対しどういう読みをしたのでしょうか。柄谷の五木に対する嫌疑と私の平野に対する疑いは似ています。妙にさわやかで時折文学者的ニヒルな表情を見せるのですが実際は職業作家としか思えません。

 

 

 

2.沈黙

 私たちのリアリティーは既成の言葉との闘いではないのでしょうか。職業作家なら先に言ったような「闇」を持ちませんからそれと友達になれますが。表現に苦労するのはまだ内に「闇」を抱えているからです。話がそれますが言文一致はたんに話し言葉と書き言葉の一致ではありません。覚えておくべきことは、直ちに表現しうる内面を自明視していることであり、これこそが教育制度による「闇」の消滅にほかなりません。

 

 吉本隆明は詩人でもありました。その彼が、詩人とは「しゃべったってしかたがない、空しいだけだ」という失語が加えられていなければいけないといいます。人間関係の本質は異和、疎外感にある以上、心療内科が失語を取り扱うべきではないのです。詩的な言葉というのは伝えたい衝動とそれを拒む矛盾から来ます。「ありがとう」や「バカヤロー」でもそこに意識のしこり、失語が加えられていればよいのです。吉本隆明の有名な言葉で『関係の絶対性』というのがあります。ややこしい言い回しですが、人間と人間の関係が絶対であって、諸個人は相対的な立場に留まざるをえないという意味です。私の解釈では相手の立場に立って行動するというのは独我論です。相手の気持ちは自意識にすぎないのですから。

 

 

 

3.関係の絶対性

吉本は終戦の日に、泣いているのを下宿のおばさんに慰められたエピソードを書いています。そして徹底抗戦するどころかあっさり日常生活に戻ってしまった大衆について。ここでの失語は異和感の「大衆」です。ロマン派の自意識の裏返しとして帰郷するところではないのです。それ以降は60年安保闘争に形としては学生の主流派に合流するのですが、カリスマ性を持っているにもかかわらず単独で行動する方が多かった。柄谷はその時代の吉本についてこう綴っています。少し長いのですが、含蓄のある文章なので我慢してください。

 

実践者としての吉本の「沈黙」は、またしてもファシズム・戦争の危機を説く変わりばえのしない啓蒙家のおしゃべりとははるかに隔たっている。彼らはきっと裏切る、その証拠は戦前戦後にたっぷりみせてもらった、今度こそはと思うならなぜ沈黙できないのか、と吉本は言っているのだ。誰でも本気でそう思っているのなら「俺は生涯闘う」などといってはならぬ。それはできもしないことをいうな、という意味ではない。口に出してしまう心の弱さが問題なのであり、この弱さは直ちに自己絶対化に陥るものなのだ。誓う(発語する)ということにおいて僕らを強いている現実の相対的な存在条件を飛び越えてしまうからである。かくて、僕らは「関係の絶対性」と「思想の相対性」の問題を、ほかならぬ言語の問題、つまり発語と沈黙の境目にひそむ問題としても見出すことができる。その境目に開いている虚無は、人間の生存条件に根ざしているがゆえに倫理的なものなのである。

                                

 

マチウ書試論 転向論 (講談社文芸文庫)