文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

書くということ=内面にある闇の露出

1.書くことと読むこと

 書くという行為がなぜこんなに困難を伴うのかずっと思っていた。「自由に書いていい」といわれれば尚更むずかしくこのブログを書いている時もそう。しかしその答えが本棚のある本を手に取って不意に浮かんできた。それは「話す―聞く」と「書く―読む」の間には大きな次元のちがいがあるのだ。ふだん人に話すように感じたままの事をそのまま文字にすればいいと学校の先生でさえもいわれるがそれは大きな間違い。「話す―聞く」は二人でなされていても共通の前提・コードがあるためモノローグ・独白にすぎない。しかし「書く―読む」の本質は一人で行っていても対話であり、それは他者と関わっている。たとえば、ある批評家が『地下室の手記』の主人公が延々と独り言を言っているがそれはドストエフスキーの対話であるといっている。こういうところには作者と読者の間に深淵があるのだ。それを埋め合わせていかないといけない。

    

 

 

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2.書く=恥の露出

 武田泰淳の『司馬遷史記の世界』は「司馬遷は生き恥を晒した男である」から始まる。 だがこれは太宰治の『人間失格』の冒頭、「恥の多い生涯でした」の恥とは似て非なるものである。文芸批評風に言えば太宰には経験的自我を嘲笑する超越的自己(自意識)がある。たとえ自殺にまで追い込まれていたとしても。一方、武田がいうのは司馬遷書くということの本質に触れて抉り出された予期せぬ恥である。書きつつ戸惑い驚いている。

 

 ところで司馬遷は、前漢武帝を怒らせて死刑か宮刑(去勢)かの選択を迫られたのだが、宮刑を選びこれまで綴ってきた「史記」の完成に固執した。特筆すべきは、彼が生き恥を晒してまでも心情でも理念でもなく記録を書き続けたということだ。人は憤懣や羞恥から記録を書くだろうか。屈辱を晴らしたければ情念を存分に書けばよいのではないか。なぜ記録を書いたのだろうか。武田は多くの歴史家は「人間」というものを描いていないという。ただしこの「人間」は個々人に備わった性格とは無縁だ。

 

 武田のいう恥はナルシスティックな自意識とは違い、 ある関係またはその変化を感知するところから生じるものなのだ。これは前に、芥川龍之介がもつ生活に類似している。

 

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 たとえば呂后という「おそろしき女」について史記から読み取ったのは、世界の中心・絶対者である彼女は世界の中にいなければならず天に昇ることなどできないということなのだ。絶対者として民衆に恐怖を持たせることで天に向かおうとするが、それは結局個人の殻に帰ることになってしまう。中心とはピラミッドの頂点ではなく、最も多くの人間と関わらなければならないという世界内存在の立場のことを言う。こういう政治的人間のことがこれまでほとんど書かれて来なかったから、自意識の恥が肥大してしまうのだ。

 

  柄谷行人がいうには、太宰治川端康成の自己完結的な恥は、1930年代後半のマルクス主義崩壊後、文学において「知」(真)や「意」(善)に対してニヒリズムとしての「情」(美)を基礎に置いてしまった。しかし武田泰淳は左翼運動から脱落した後、地主階級であった寺院に依存し、さらに愛する中国に兵士として侵略することを強いられたのだが、そうした転向からくる罪悪感はあったとしても,その過剰なまでの自意識の恥そのものを恥じたというべきだろう

 

 これにひきくらべ、中国は滅亡に際して、はるかに全的体験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の姦淫によって複雑な成熟した情欲を育まれた女体のように見える。中華民族の無抵抗の抵抗の根源は、この成熟した女体の男ずれした自信とも言えるのである。

                     武田泰淳

 

 柄谷行人はこれを読むと『雪国』の美しくはかない女たち=日本は近代的自意識がつくった夢想にすぎないという。ここで先の問いに戻ろう。人は「憤り」や「恥ずかしさ」から歴史の記録を綴るのか?それは世界内存在にとどまろうとする人間、他者と向き合おうとする人間にとって不可欠だからだ。

 

 「書く」ことは単に出来事を記録することではない。文字以前の社会では、出来事は単に記憶されればよかった。それは彼らの記憶力が良かったからでも出来事が少なかったからでもなく、出来事がたえず神話的構造に還元されてしまうからである。出来事が出来事として、もはや構造に吸収されないものとして生じたときに、はじめて歴史的社会になる。だが、それは出来事そのものが異なるからではなくそれを経験する者において、構造的な分裂が意識されているからである。「書く」事は出来事を記録するために生じたのではなく、書くことによってしかこの分裂を統合できない危機から生じたのだ。『古事記』は神話ではなく歴史であるが、それは『歴史的事実』が書かれているという意味ではない。もはや口誦によっては統合できない分裂が彼らに「書く」ことをうながしたのである。文字は音を写すものではなく、「書く」ことはつねにそのような構造的分裂を背後に持っている。したがって「書く」ことは、最初から残酷なものがひそんでいる。

              「歴史について―武田泰淳」 柄谷行人

 


 ある出来事、本人にとってこれまでのパターン習慣とは違う何かを感じた人間の恐怖=恥から書かれた作品は読むに値するものではないだろうか。

 

 

司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)

司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)