文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

場所を選ぶ~ 主催者・リーダー・単独者

 タイトルにある場所とは、東京、北海道、沖縄という地理的な場所ではありません。複数の人間の関係、またはそこから距離をとるものと排除されたものの意識を指すことにします。 前回と重複するかもしれませんのであしからず。

 

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1.超越者

 最上段にいるのは超越者で、世の中すべてを見渡せる人です。聞こえはいいですが、彼は知るということには長けていても、生々しいリアルな世界に腰を下ろそうとしたとたんに突き放たれる感覚を持ってしまうのです。文芸批評をやっていた時の柄谷行人がいうには、

それは実践家ではなく、認識者であり、しかもどんな人間的実践にも物語にも幻滅したがゆえに二度とそれに加担することがなく、ただ実践が何も生まないことを確認するためだけに生きているタイプの認識者である。

 だが、この諦観した認識者というのを天界から見守るという意味で「天使」になぞらえる。 

しかし、「天使」たることは不可欠でありかつ不可避的である。われわれはいちど徹底的に「形式的」となるのでないならば、「人間」にはなれないだろう。形式主義とは、人間主義の死である。だが、そこで初めて新しい「人間」について語りうるかもしれない。有限で一回的なこの生を肯定しうるような「人間」について。それは、もと「天使」であったはずである。

                 「内省と遡行 」

 これはア・プリオリに人間を権威づけることへの戒めであり、また人間の愚かさを愛おしく感じるロマン主義への批評でもある。前の記事でも、花田清輝が実践者よりひたすら事実を知ろうとする認識者たらんとしたことと似ています。犬死ではいけないから華々しい革命家より怯懦な思想家というわけです。

 

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2.スケープゴート

 最下層に置いたのは一番つらい立場という意味です。組織や仲間グループというのは排除の原理が働いてより強固になります。規模が大きければ内と外の境界を作ることになるのですが、ここではいけにえ、仲間はずれ・いじめについて述べます。彼・彼女は集団に対し異和を感じるのですが、超越者のように悠然としていられません。そこに溶け込みたいと思っています。彼・彼女らへの排除が、集団を活性化するわけです。民主主義の難点であるマイノリティーへの配慮が行き届かない。権力者の特定個人へのパワハラも最近よく言われますが、実際それを行使できる人はそうはいないはずです。

 

3.リーダーと主催者が求める場所

 ここでのリーダーというのは共通の規則に依拠して辣腕をふるえるものといえるでしょう。たとえば、野球の監督はどうでしょう。そこにはルールがあり、打順は1番から9番まであり、守りでは九つのポジションがあり適材適所当てはめていくのです。感情は持ってはいけない。ところが冷徹になれないリーダーなら好みで選手を起用することもあります。そして容易に主催者に転化してしまうのです。不具合が生じた時、感覚や感情によって不和を乗り越えようとするのが民主的な「飲み会」でもっともお粗末な解決法と思うのです。ただのお調子者がそれを主催する分には構わない(ただ、たくさん集めてそれで終わりでは困りますが)。「まあ、一杯飲んで気を取り直してくれ」みたいな。お楽しみ会に参加しない奴は村八分にするぞと。

 こうしてみると、リーダーは共通の規則・前提のあるところで力量を発揮し、主催者・お調子者は感情的同一性のあるところで集客力を誇示したがるのです。リーダーと主催者は意識していないと簡単に入れ替わることでしょう。ある哲学者がいったことを今風に言うと、私を含めた三流の人間はふるさとという場所を甘美に思うもので、そこそこ力を蓄えた二流の者はあらゆる場所を故郷=共通の規則に替えられると思い込んでいるうぬぼれ者。それでは一流の人間とは?

 

4.単独者の場所

 それはずばり、上の図にあるカオスの世界に生きる人です。もともと自然界というのは中心がない、いや多中心の世界で自己言及的です。その中である目的をもって行ったことが正反対の結果になることがあります。そこで、人々はこのぬかるみの上に組織や制度を作ります。実は最も科学的といわれている数学でさえこのカオスの上に建てられたものなのです。

 

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  この根源的な場所、足場の脆弱なぬかるみでは共通の規則などありえないから単独者として振舞おうとするのです。それは同時に相手をも単独者として扱うことになる。ここでのコミュニケーションは柄谷行人のいう<教える―学ぶ>の関係なのですが、これはいまの学校での先生と生徒とは無縁です。ここでは、答え(真理)は一つだからそこに導いてやろうというものですが、それは<話す―聞く>のモノローグにすぎません。一つの規則したないわけですから対話は存在しない。学校が閉鎖的な理由はこういうところにあると思います。

 

 本来の<教える―学ぶ>の関係はそうでない。教える側が優位ではないのです。自分がいったことをどう解釈されるかは相手次第です。粘り強くアソシエートする以外にないのです。非常に苦労が伴うのですが、自発的で開かれた世界ですね。私は小説はあまり読まないのですが、坂口安吾のエッセイは好きです。堕落論』は倫理―反倫理の反倫理に堕ちろといっているわけではないのです。それ以前、まだ道徳がない状況に遡行せよといっているのです。常識を疑えと。

 

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