文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

闘争という逃避に抗して~ 花田清輝の場合

孤独な闘争

 花田清輝は戦時中に『復興期の精神』を書き綴っていた。ただ戦時中とは思えないほどレトリックを巧みに使ったオシャレな本で”転向”や”精神”に対する懐疑を表現しているが検閲にひっかかることはほぼなかった。

 

 彼は自らを16世紀ルネッサンス時代のコペルニクスになぞらえていた感がある。コペルニクスは地動説(太陽中心説)を守り抜いたがその状況というのは過酷に違いなかった。花田の論に従うと、進歩派(ルター)と保守派(レオ10世)のはざまで両者の均衡の上に地動説を強化しながら彼らが弱体化したときに前面に出るといった策を持っていた。ルターは「メシアが止まれといったのは地球ではなく太陽だ」といってその程度のことは当然だと歯牙にもかけなぬ態度であしらい、他方では、教皇レオ10世は本心では信じていなくても好奇心旺盛でそれを数学・天文学的に証明してくれと求める。同じ説を持っていてもブルーノは焼身刑に遭い、ガリレイは拷問を課された。華々しい殉死に人はロマンを見るが、コペルニクスは大衆の目に触れることなく孤独な闘争をし続けたのだ。ルネッサンスの巨匠が<神/人間>の狭間で生きていたのに対し、花田ら戦時中の知識人は<天皇/民主>の葛藤を抱え生きてきたのではないだろうか。

 

 

二つの焦点から多中心世界・無数の価値観へ  

 付け加えると、この書には「楕円幻想」というこれまた私の好きな話がある。殺人、強盗、恋愛、飲酒に明け暮れた15世紀フランスの詩人ヴィヨンについてだ。分裂した価値である敬虔と猥雑を保ったまま見事な楕円を『遺言詩集』という作品に描き切ったといっている。私たちは無知のため、あるいは見て見ぬふりをして一つの中心のみに集中してきれいな円を描くことはできる。しかしそこに誠実さはない。ヴィヨンと同時代の作家マルグリットも‟堅固な信仰”と‟放恣な肉欲”を描いてはいるがそれは使い分けだと花田は拒絶する。彼女はふたつの焦点の解消、焦点を中心に解消したのだと。

 

 しかし21世紀の今、<動物/人間><物質/生命>といった二項対立が無化されようとする時代が来ている。私は花田のいうような楕円を描くための焦点は最早なく、多中心いや中心なき世界でどんな絵を描けるかが重要になってくると思う。

 

   

 

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

復興期の精神 (講談社文芸文庫)