文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

教育を語る ~教育権の独占

集団行動

 

 どうも親睦会というものは町内であれ、親戚であれ苦痛に感じる。理由は、まず話題が最大公約数的つまり当たり障りのない退屈なものだからだ。これは憶測だが、10人前後の人が集まったとしても彼らのうちの二人か三人くらいしか楽しんでいないだろう。他の人も楽しいふりをしながら、何か言わねばいけないととにかく言葉でなく音を放り込む

 

 ちょっと飛躍するが、こういう集団活動が至る所で行われるのは義務教育の影響が大ではなかろうか。とにかく集まればいい。そこで何を話すか、何を計画しようかは二の次でただ同調することが大切なのだと。小学校に入学する前の歌に「友達100人できるかな♪」とかいう歌もあったし。自分自身、集団行動を苦手とする嫌いはあったが、最近は同じようなことを書いているブロガーも少なからず見かけほっとするようになった。

 

義務教育

 

 ソビエト建国の父レーニンはこういう。

人によってはお化けにしか見えないこの工場こそ、プロレタリアートを結合し訓練し彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労 ・非搾取人階層の先頭に立たせたところの資本主義的協業の最高形態に他ならない。資本主義によって訓練されたプロレタリアートイデオロギーであるマルクス主義こそ、不安定なインテリゲンティァに工場の持つ搾取者的側面(飢餓の恐れにもとづく規律)と同じく組織者としての側面(高度に発達した技術からくる共同労働に基づく規律)との相違を教えてきたし今も教えている。ブルジョワ・インテリゲンティアがなかなか獲得できないこの規律と組織をプロレタリアートは、まさしく工場という「学校」のおかげで、極めて容易なものにしてしまう。            

  「一歩前進、二歩後退」

 

 最近、ホリエモンも事あるごとに否定的な見地から同じことを言っている。産業資本の不足した地域では工場を立てることはまず不可能だが、指導者がやることはまず「学校」と「徴兵制」の設定だ。ホリエモンが拒絶するのは、このIT化が進んだ現代、個々人が自主的にアソシエート(関係づけ)することが必要になってくる、もはや組織は不要になりつつあるという理由からだ。大手企業に就職しようとも定年を待たずしてジリ貧に陥るというわけだ。

 

教育の独占

 

 ここで楽しく淡い青春の一ページを宝物にしている方々の、学校を工場と同一視するとはなにごとか!という反発を想定し、弁明させていただく。私自身も高校二年生の時は体育祭、文化祭、修学旅行などビッグイベント目白押しの中大切な思い出ができた。しかし、自分から何かを積極的に創ったのではない。厳しくいうと、心ある仲間に引っ張ってもらい付いていったにすぎない。こういうと身内や同窓会では煙たがられるのだろう。だが、社会主義国プロレタリアート育成のようなストイックなものと一見対称的に見えるが、日本の仲間意識・友情を重んじる傾向も本質は同じなのだ。

 

 今日のテーマは義務教育だが、高校も義務教育という基礎の上に立つもので、マックス・ウェーバーの言葉を借りると暴力を独占する国家に支配権は握られている。たとえゆるゆるの惰性であっても、穿った見方をすれば、愚民化政策なのだろうか。近年は顕著に義務教育の弊害は枚挙にいとまがない。

 

 

フーコー・コレクション〈4〉権力・監禁 (ちくま学芸文庫)

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