文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

生活

 柄谷行人の「死後をめぐって」というエッセイのなかに「生活」というのがある。生活は今でも現実であるから死語とは言えないが、このエッセイは1989年に書かれたものである。この「生活」が意味するのはマルクス主義<知識人>の自意識にあるものと考えるのが妥当だろう。

 

終焉をめぐって (講談社学術文庫)

終焉をめぐって (講談社学術文庫)

 

 

 

 私はこのエッセイがすごく好きだ。その中に芥川龍之介の自殺についての考察があるのだが、多くのマルクス主義者や小林秀雄吉本隆明らの批評家はその原因に「プチブルの自意識」や「生活」からの乖離を挙げる。それに対し柄谷は「生活」「大衆」に寄り添った知を否定する。それは庶民を否定することではなく<知識人>の表象を批判するためだ。

 

 芥川の遺稿の中に、ある農民作家が彼のもとに実話をもとにした小説をもってくる話がある。生活苦のため自分の子供を殺しドラム缶につめてどこかに埋めたという粗筋だが、現実にそんなことがありうるのだろうかと問うとその農民は「それはオラがやった」と答え、勝ち誇ったように温室育ちの芥川の前に立ちはだかるのだ。柄谷がいうにはこの農民こそが典型的な<知識人>で「生活」「庶民」をバックボーンに安住している。もはやそこには共同体の道徳はないのは言うまでもない。

 

 ところで坂口安吾小林秀雄らとは全く反対に芥川を擁護する。共同体に根づいた「生活」というものから突き放たれたところに芥川の真の‟生活”があるという。分かりやすくいうと芥川は「生活」に同化しようとしなかった、いや出来なかったのだ。そこに倫理的探求の意志がある。知というのは「現実」「生活」「常識」から乖離することなく存在することはない。

 

 21世紀の今「生活」「共同体」は理念によってではなく資本によって消滅させられた。そうした時代に柄谷行人はカント的理念、統制的理念について考えるようになったのである。これは共産主義勢力が行った性急な理念の実現とは程遠い、実現不可能なもので生きているわれわれがその恩恵を享受することはできない。ではなぜ、それを目指すのか。1989年にソビエトが崩壊したあと理念を嘲笑するシニシズムが蔓延するようになった。それからずっと柄谷はその問いに答えようと試行錯誤しているのだ。

 

 英語版「トランスクリティーク」序文を参照。