文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

仮想通貨の起こり

貨幣論 

 かなり地味な運動であったNAM(New Associationist Movement) は柄谷行人を発起人とする資本と国家を揚棄する運動で20世紀末から21世紀の最初の2年の間の行われた社会運動である。 

 

NAM―原理

NAM―原理

 

 

 その原理は消費―生産協同組合の連携や役員のくじ引き制などの5項目から構成されているが、その中の目玉である地域通貨に関しては内部でごたごたがあり結局分裂し解散となった。柄谷はマルクス資本論より商品交換を言及する。

      

       商品A(相対的価値形態)= 商品B(一般等価形態)

 

 これは見ての通り等式ではあるが、商品Bが商品Aの価値を決定する。つまりBが交換権を持っている。Aは交換されなければ商品にはなりえないわけだ。ところが、逆にAが右辺の一般等価形態の位置にいくことができるがその時はBがそこから追い出されなければならないのだ。

       商品B(相対的価値形態) = 商品A(一般価値形態)

 

 商品交換とはこうした互いが排斥しあう不安定な関係なのだ

 

 そこで、独占的に右辺、一般等価形態の位置を占めるのが貨幣というわけだが、それは別に何が来たってよい。いつでも交換されるものという思い込み(信用)さえあれば。

       

    商品 = 貨幣      完成された価値形態

 

 じつはこの貨幣出現によって不安定な関係は解消されるというわけではない。それはこの不安定な関係を隠ぺいしたまま交換が継続されているということなのだ。 

 

 

  現在のデフレ脱出がNAMにおける市民通貨Q(円に対してダジャレでQ)が出てきた背景である。ただし、柄谷が警告するのはQが円の補完となってはいけないということである。法定通貨は自己増殖運動をおこすガンだから市民通貨Qもまた対抗ガンになってそれを死滅させないといけないという。当時は地域通貨と呼ばれていたのだが、それが地域経済の通貨不足を補完するという消極的な目的のため、あえて市場に導入することを強調することから市民通貨と呼んだ。

 

 当時のQは全く普及せずその市場は脆弱なものであったから柄谷のイライラは爆発し、「Qは終わった」という論文を書いた数週間後NAMも脱会したのである。ところでQの特徴はNAM会員誰もが上限は決められているが、その発行権を持つ。よって蓄積することに意味はない。ただ、市場が拡大しなかった以外に国家・税務署の監視は厳しかったらしい。

 

 なぜ15年も前の運動を持ちだしてきたかというと、現在のフィンテック革命がそのことを想起させるからだ。これまでの歴史を振り返っても革命、既得権の転覆というのは理念よりもテクノロジーの力によってもたらされるのだなあと納得させられる。ただし、ビットコインには発行権はないので今は投機目的で取引されているのが正直な所だろう。技術の進歩で近い将来、法定通貨を葬ることは十分に考えられるだろう。

  

 

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

 

 

資本家と労働者 

  格差社会という言葉が定着されるが、それはかつての資本家対労働者の構図で語ることはもはやできない。中小零細企業の社長など大手企業のサラリーマンよりも所得が少ないことはザラだからだ。また、サラリーマンでも、ネットの普及で容易に株式投資をおこなえるようになった。定期収入と株主配当というハイブリッドで収益を得る人も増えている。

 

 「トランスクリティーク」では、資本主義などそもそもないという。主義というのは人間が自由に選び取るものであるが、資本主義といった場合、それは強迫観念であり、人間に蓄積することを強いている。

 

 マルクスの時代から、現象としては資本家―労働者(主人―奴隷)であるが、それは上記の商品―貨幣の関係から派生したものにすぎない。人はこの非対称的関係において価値を与える側つまり売る立場に立ちたい。そこから、貨幣を何とか蓄える。柄谷が貨幣の自己増殖運動というのは、人間の意志によるものではなく価値形態という不安定・非対称的関係による。

 

 資本家を国家あるいは民族で消滅させることは不可能なのだ。いずれスターリン主義ファシズムに帰結する。貨幣の性質が変わらないといけない。今多くの仮想通貨がネット上で起こっていて、基盤としても市民通貨Qよりも強固だ。ただし、投機目的いや資産運用としてでもそれが有用だというならこれまでの性質と何ら変わらない。