文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

ニヒリズム=意味の要求

否定の否定 ~絶対肯定

 

予備校に在籍していたころ、英文でニヒリズムを題材にしていた講義があった。その作者はあらゆることを知りすぎたのだろうかすべてに価値を見出せなくなった。カネ、愛情、誠実、力、知恵、そして生命さえも。それはビルゲイツアントニオ猪木ソクラテスらを否定することにもなる。

 そのもの自体に価値あるものはない。そして世の中がシラケて見えるようになり、死を選ぼうとする。

 

 が、死は自己を絶対化する。あらゆる関係を断ち切ってしまうわけだから。そうすると皮肉にも自分のつかんだ思想「それ自体価値あるものは何もない」を否定することになる。この作者は否定の否定という徹底的な否定のあと自身で価値を作り上げていこうとする。

 

 「生きるべきか死ぬべきか」というハムレット的問いは意味を持たない。なぜなら生も死もそれ自体価値はないからだ。

 

 わたしが最近改めてこの文章を読んで感じたのは意味と無意味という回路からの脱出が大事だということだ。たとえば、かつて非合法のマルクス主義者は弾圧ののちプロレタリア文学者として生計を立てる。政治で敗れはしたが文学で取り返そうとする。そしてそれさえも行き詰って私小説作家にこもる。

 

 理念(意味)ー ニヒリズム(無価値)という円環

 ニヒリズムは価値を拒絶するのではなくその希求にすぎない。柄谷行人は自意識の産物である無意味ではなく非意味を説く。それは、関係における対立や葛藤から押し出されてくる個で実在物ではない。

 

中野がいうように、内村鑑三日露戦争まではそのような「個」としてあった。しかし、戦後においては、個を内面として実体化し、闘争を拒否し始めたのである。同じことが、国木田独歩をはじめとするロマン派や自然主義者についていえる。日本の近代文学の内面性とは、闘争の回避であり闘争の放棄を闘争と見せかけることである。

          「死語をめぐって」 柄谷行人

それを示唆する恰好の例がある。

 三島由紀夫の4部作「豊饒の海」 最後な主人公は自殺を図る。これは自己絶対化するためではなく意味の不在、価値の不在を知らしめるためのイロニーとして。ここでは意味の要求はなく、その不在を陽気にふるまう。三島の盲目的愛読者への警鐘として柄谷は言う。

三島由紀夫はこの意味で、「昭和の精神」を再喚起することによって、それを終わらしめた。マルクスの言葉をもじって言えば、この悲劇ならぬファルスは「昭和」との決別をいっそう陽気にさせるためのものである。三島の死を右翼や保守派が担ごうとするほどに滑稽な光景はあまりないだろう。彼の行動は、徹底的にアイロニカルなものである。彼が実現すべきものは、何かを実現しようとする人間的思考を壊滅させることであり,彼が防衛すべき「日本文化」とは実体的に何もないだけでなく「何も無い」というそのことなのである。 

          「一九七〇年=昭和四五年」 柄谷行人

 

坂口安吾のいう意味=必要

では、三島のイロニーに対し坂口安吾の考える価値とは何だろう。

法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺を取り壊して停車場をつくるがいい。わが民族の光栄ある文化や伝統は、そのことによって決して滅びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが、累々たるバラックの屋根に夕日が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここにわれわれの実際の生活が魂を下ろしている限り、これが美しくなくて、なんであろうか。見たまえ、、空には飛行機がとび、海には鋼鉄船が走り、高架線を電車が轟々とかけていく。

          「日本文化私観」  坂口安吾

 

 すぐ後に「日本列島改造論」というのが出てきたことを思えばそれほど驚くに値しない。が、安吾が言うのは美において語っている。近代を超えるとかそれ以前に回帰するとか言っているのではない。まず、現生の肯定がある。