文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

遊ぶように働くこと  ~知の再生

 産業構造の転換期というのは新手はまず嫌悪されるのは常だ。第一次産業革命は手工業の職人さんから機械が仕事を奪った。これまで手先の器用な人たちは窮乏することになった。第二次革命は重工業で国家主導の独占資本が幅を利かす。エンゲルスはそれが社会主義になると考えたらしいが、そこに労働者の主体はないことは明らか。さらに技術の革新により耐久消費財は一般家庭にも普及するようになったが、そんな恩恵にもかかわらず「便利が人間を駄目にする」とかいって自動車をハンマーなどで壊すラッダイト運動もあった。

 

1.遊ぶように働くこと

 人工知能の躍進のおかげで人間は働かなくともよくなるであろうという人がIT系の進歩派にはいる。おそらく、世界規模で考えればそうだろう。これはたいていのモノやサービスが手に入るわけだからデフレ状態、商品の価値はないという状態だ(その前に日本というローカルな地域で考えるとそうはいかないだろう。これだけ財政赤字を大きくしたのだから)。

 

 そんなことはけしからんと団塊世代や気合いと根性の人はいうかもしれない。しかしよく考えてみると商品という概念は商人資本と資本制生産が前提となっていることに注意しないといけない。私たちは富国強兵と一緒につくられた学校制度を通過した。それは集団行動に適合する人間を育てる場であったわけだ。

 

 学校は管理・計画的社会主義にも応用が利くし、巨大資本に傘下させる労働者をあてがうのにも役立つのだ。資本制は1+1=3にするパワーを持つが個々の労働者がえる報酬は1のままで労働者間のつながりは遮断される。私たちが「額に汗して働く」ということに酔いしれているのは資本にとって好都合となる。

 

 これまでの商品は、これまでの貨幣によって規定されたもの、つまり脅迫的に蓄積を促すもの(マルクスのいうMーC-M'という貨幣の自己増殖運動)によって規定されてきた。よくは分からないが近い将来フィンテックによって個人の信用が大事なものとなり自由に調達できる能力の方が求められるのかもしれない。こうなるとこれまでのインフレ、デフレという尺度は無意味になる。

 

2.知の再生

 話が貨幣論にそれてしまった。管理的社会主義にしろ独占資本にしろ、おおきな株式会社も同じでそれらにとって<学校>は労働者を搾取するのに好都合なのだ。集団行動を重視することは体育祭の入場行進や組み立て体操を見れば明白だ。

 

 だがこれからは違う。凄まじい勢いで情報収集力とネットワークの構築が要請されてきている。知らなかったでは済まない、知らないやつが悪いという経済格差より情報格差が問題になるであろう。あてがわれた場所の一駒として過ごすとはもはや許されない。「疑う、考える」という行為は口先だけでなく実行しないといけない。地域コミュニティーから家族そして個人へと社会の構成単位は小さくなる一方で責任は個人にのしかかる。

 

 だがこれは悲観すべきことではない。「遊ぶように働く」というのは労働者にエンターテイメントを求める。創造力を求める。わたしはそれが逆説的にこれまでの知も変えていくのではないかと期待しているのだ。<学校>が<子供/大人><遊び/労働>と二分するのに一役買った。そしてほとんどの大学では文系とくに文学や哲学は軽侮の対象になり下がっている。廃止も時間の問題であろう。

 

 だから、それを抗議しても始まらない。国家の義務教育を基礎にした学問にすがる必要はないのだから。知を必要とする個々人あるいは小組織のアソシエートに可能性を求めるよりほかはない。

 

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