文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

根拠のない世界

 

1.発明としての数学

 

代数学の常識は私たち一般人には驚愕である。

 

一つの数学体系は無矛盾であれば真である必要はない

 

 たとえば、平行線は無限遠点で交わるという仮説を立てる。それ以上の根拠は求めずただ演繹すれば非ユークリッド幾何学が成立するらしい。また三角形の内角の和が2直角以上になるというのもある。

 

 

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 これは、私たち人間の知覚や対象物の実在を括弧に入れることから始まる。

代数学は<真―偽><善―悪><美ー醜>は見ないことにしている。根拠の不在ゆえこれは後に応用可能なわけなのだ。非ユークリッド幾何学が平面ベースを球面ベースに変換したときにそれが真として成立するように。

 

 最近、オイラーの公式というのを見た。間違いかもしれないが指数関数と三角関数という全く相いれないものを組み合わせさらに指数のところに虚数iがある。ふつう2乗すれば-1になるというのは高等教育のレベルでは受け付けられない。そういうことにしておこうというレベルの話だ。ところが、それが現実に物理の公式でも用いられるようになった。

 

 

2.機械と人間の境界を無化すること

  20世紀の実存主義哲学者マルティンハイデッガーサイバネティックスの登場で「哲学者にどんな仕事が残されているのか」を問うた。そして彼は成り行きからナチスに加担することになった。

 

 

 

 柄谷行人はいう

現実化された形式体系(差異体系)、すなわちコンピューター(人工頭脳)に対して、人間はいかなる意味で人間的であるかを問われるとき、われわれはそれをポジティブにのべることは許されていない。むしろ、人間を人間たらしめる「根拠」は、その「無根拠性」にあるというべきなのだ。

       「隠喩としての建築」

 

 機械と人間、動物と人間そこに境界線を引くのは難しい。なぜなら境界は初めからないのだという。

 

 フォン=イノマンがコンピューターをプランした時からゲーデルの「不完全性定理」は克服されないままだ。今ほどコンピューターが普及していなかった80年代初頭に柄谷はハイデッガーの不安に答えたのだ。

 

人間とは、自己差異的な差異体系であるがゆえに、本来的に無根拠であり、過剰であり、非中心=多中心的な機械であって、まさにそのために不可避的に禁止が要請される存在なのだと。               

 

 柄谷のいう「隠喩としての建築」は混沌とした過剰な生成に対し一切”自然”に負うことのない秩序や構造を確立することでこれは本当は不合理なのだ。しかし、最も規範的とされる幾何学は建築たらんとするからこそなのだ。

 

 

定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築

定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築

 

 

 

隠喩としての建築

隠喩としての建築

 

 

 日本は先の大戦でも成り行き、責任者は不在で一億総懺悔ともいわれた。「隠喩としての建築」の解説でいっていることだが、この書は「建築への意志」を欠いた日本の思想的土壌の中であえて建築的・形式的であることを徹底した稀有な書物だ。彼はもともと文芸批評家でハイテクノロジーを文学の問題として扱ったわけだ。