文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

これからがポストモダン!  ~スマホ、パソコンを使って

  インターネット黎明期にシステム行動論というのが流行った。要はコンピューターの働きを言うのだが、経営における多要素間、産業における多分野間の関係そのものを運動しつつある姿で捉えようとするものだ。

 

 今のITはより高度化し人工知能AIが日常生活にますます浸透しつつある。ロマン派文学者の典型はそれに対して知のデカダンスだという。もともとコンピューターは情報処理機械であるのに機械と同じように考えるというのが最先端だとするのは倒錯だと。

 

 ロマン派はやたらと人間の質的側面に訴える。しかしこれまで言ってきたように私たちは<物質/生命><動物/人間>という構図で優位に立つことは許されていない。

 

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 この問題は、ファシズムとスターリン主義の問題に転化してしまうのだ。頑固な中年層、壮年層は若者のスマホ弄りに怒りを感じているが彼らはそこでリアルのものを期待しているからだ、人間のぬくもりを期待しているからだ。ファシズムは熱狂を希求する大衆に支持されて出てきた。いうなれば秩序に対し無秩序に重きを置いたのであった。言うまでもなく秩序・計画の極はスターリン共産主義といえよう。

 

  今後一層進化するであろう情報処理技術に背を向けてはいけないがそこに呑み込まれてもいけない。私たちは外部に対し疑い考えないといけない。

 

 近代哲学の祖デカルトの有名な言葉「われ思うゆえにわれあり」というのは主体を確立させるのに役立った。だが後継者スピノザはそれでは駄目だといったそうだ。われ思うは事物の内面化である。スピノザは「われ思いつつわれあり」といったのだ。内面化しえない外部との緊張状態を受け入れることが実存だと。

 

 ヒトラースターリンを根底から批評しようとすれば私たちはこのスピノザの態度を持たないといけない。つまりそこから導かれるのは他者との終わりなき対話である。柄谷行人がいう<教える―学ぶ>の関係だ。ただしこれは現存の学校制度にはない。あるのは<話す―聞く>という対称的関係で既存の事実を前提にしているだけだ。教えるというのは他者の解釈に規定される弱い立場で<売る―買う>の売る立場に似ている。

 

 

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 学校制度が批判するとしたら、集団との協調に焦点を置くべきだろう。終身雇用の崩壊、地域共同体の希薄でますます個人の力が問われるようになった。しかしひきこもってパソコン情報を眺めているだけでは小さな集団と何ら変わらない。情報を発信しネットワークを構築する。愚直にこれを続けるのが今のところ私たちに残されているアソシエーションの可能性なのだから。

 

 

         最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

    システム行動論について参考までに