文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

道徳と倫理 この違いは大きい

 柄谷行人の文学(評論)に傾倒した私は、彼が掲げる資本と国家を揚棄する運動NAM(New Associationist Movement)の会員に無批判に入会しました。その行動の指針となるのは「原理」という今は絶版された本に書かれています。

 

 プログラムは5条に要約されていて、それに合意する限り各個人または各個人が好きに創意工夫すればよいことになっています。今日はその第1条を検討します。

 

㈠ NAMは、倫理的―経済的な運動である。カントの言葉をもじって言えば、倫理なき経済はブラインドであり、経済なき倫理は空虚であるがゆえに。                                

 

 

1.NAMの倫理

 柄谷はこれまでに道徳と倫理というタームを峻別している。道徳は集団に根ざしたものである。これは農業共同体や自分たちが住む小さなコミュニティーが世間という名のもとで個を拘束します。

 

www.legendaryletter.net

 

 世間が課す道徳は国家権力とは違い、法的・暴力的制裁に訴えることはないが村八分という真綿で首を絞めつける方法をとる。学校のいじめ問題もそういうところにあるのではないでしょうか。もうひとつ国家は強制力を持つ。これに対して対抗することは裁判で訴えること以外ほぼ無理なわけです。世間も法もまず集団ありきで個人はそこに従わねばいけません。

 

 郷に入れば郷に従うです。

 

 それに対し、柄谷が重視するのは倫理です。これは、個人の価値観に基づきます。私の解釈では彼がよくいう教えるー学ぶの非対称的関係において生じるものでないといけない。

 

 学校のように教える立場にいる先生が立派で、生徒は彼・彼女のいうことは正しいということを前提に鵜呑みにするか、そこから自在に応用・演繹するのです。しかしこれは教える―学ぶの関係ではなく、話す―聞くの関係にすぎないのです。話す―聞くはスタティックな構造にあるから両者ともそこに安住できる。

 

 

 

 

探究(1) (講談社学術文庫)

探究(1) (講談社学術文庫)

 

 

柄谷のいう教えるは、独自の倫理を備えていなければならないのです。そして自分の教えが相手他者にどう受け止められるか期待できない不安定な場にいるのですね。説得という要素が強い。「決まっていることだから覚えておけ」は通用しないのです。

 

 ついでに言うとロシアの文豪ドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公は延々と独白をやっているのですがこれはモノローグではないと柄谷は言います。これは話した後、読者が主人公と違った解釈をしたのではと察知し、また説明を始める。これは立派な対話、教える―学ぶの関係なのです。

 

 

 

 倫理というのは個人に根ざしている、そして説得をとおして広域に広げるよりほかはないのです。

 

 

 

 

2.NAMの経済

 NAMは倫理的―経済的運動であるといった場合の経済的運動というのは当然市場経済を指しているのですが、ここに倫理がくっけば市場経済の裏面である貨幣蓄積の場を批判しないわけにはいきません。

 

 教える―学ぶが非対称的であると同様に、売る―買うも非対称的なのです。売るというのは立場上弱いのです。「私たちは精魂込めてつくったのだからそれ相当の価値はある」といっても消費側が何の関心も示さないと価値はない。生産者はくだらないと思っても売れるものを創らないといけないし、あるいは独りよがりになってもいけない。価値観の多様性というとき私たちはこうした不安定な構造にいるという覚悟がいるのです。

 

  宣伝になりますが趣味で、私が「独我論」に関する長文の解説をPDF化して販売したものがあります。

http://atasteinreading.chips.jp/karataniforum/Solipsism.pdf

 

 かなりの力作と思っておりますが、これも独りよがりといえばそれまでで、おカネを出す側に理解されなければただのジャンク情報なのです。 

 

 

 NAMが目指していたのは、自己増殖する貨幣の撲滅です。自己増殖といったのは売る―買うにおいて弱い売るを免れるために人間の意志を離れてこの関係(マルクスのいう価値形態論では商品―貨幣の関係)が貨幣増殖へと駆り立てていることになります。

 

 貨幣のおかげで、人々は時間的空間的にも取引を拡大させることができたのだがその弊害は今述べた売ることの逃避にあります。そこでNAMの肝はQという市民通貨の導入にありました。簡単に言うと、NAMに所属する諸個人が自由に発行できるためため込むことに意味はない。21世紀に入ってすぐのころでしたが思っている以上に利用者が増えなかった。お子様銀行券と揶揄されもしたのです。

 

 ところが今、フィンテック革命とかが起こりビットコインのようなネット上の通貨が出現してきた。これは中央銀行が発見するものではないですね。今後期待したいと思います。