文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

戻れない青春と実現不可能な夢のはざまで

 過去の栄光に依拠したり、それほど大げさでなくとも学生時代の楽しかった思い出にしたる時間が多い人は当然いまは不遇なのです。この過去というのを空間的に故郷と言い換えてもよいでしょう。

 

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 以前にも書きましたが、僕は過去の思い出がなければ、今の自分はなかったものと思っています。ただしその過去、故郷というものをたんにノスタルジーで終わらせてはいけないのではないか、それはずっと高校を卒業した時からあった。20年ほど前に坂口安吾の『文学のふるさと』を読んだとき、こういうきびしい故郷って大切にしておかないといけないなあと思ったものです。

 

 安吾は、シャルルペローの「赤ずきんちゃん」を取り上げてます。かわいい赤ずきんちゃんはお婆さんのもとに会いに行くのですが、そのお婆さんに変装した狼にムシャムシャ食べられておしまいとなる。だがそこになんかすがすがしさを感じませんかというのです。

 

 これは私の解釈ですが、百獣の王ライオンは子を崖に突き落とすという感覚なのでしょう。その子がたとえ親ライオンのもとに這い上がってきたとしてももう一度突き落とすか、よそよそしい態度をとるのではないか。私は後生、大切にする故郷はそうであってほしい。少しマゾヒストの感覚ですが、同一性を持って温かく迎えてくれるものであってほしくないところがあります。あの純情でキラリとした気持ちは取り戻すことはできないはず。とくに、卒業後または故郷から遠く離れ懸命に生きてきたものにとっては。

 

 青春時代に自分にとってかけがえのない片思いの女性が、実は自分のことなど全く気にかけていないことなどよくある話ですが、それはそれでいいのではないでしょうか。その人の存在そのものに感謝すればいいのです。あの時の気持ちを確かめようと同窓会で打ち明け話をするのは愚かと思うのです。「赤ずきんちゃん」のようの食べられてしまえば元も子もないのですが、そこに近づけば、厳しく突き放すあるいはあえてよそよそしい態度で接することで期待を裏切ってくれた方が前に進めますからね。

 

 数年に一度くらいのペースで同窓会を開く幹事さん、それに毎回のごとく出席するクラスメート。私は、彼ら彼女たちって哀れに思います。それは楽しかったという事実を毎回確認する行事にすぎないわけです。それ以外だと、ジャイアンツ、タイガースの近況を語り合う場になる。

 

     その人たちが望むのは現状維持。

 

 成人式を含めると、3度しか同窓会に出席したことはありませんがその場の雰囲気は察しがつきます。無難な最大公約数的話題かプラスティック・インフォーメーションの飛び交う場でしょう。本当のSMには興味がありませんが、大切にしているものに殴られ、冷笑されて喜ぶ感覚を持てないと前途は暗い。

 

 

 

 それでは、今度は反対方向の未来について考えてみます。

故郷、過去の思い出は前途への原動力に役に立つのですが、目指すべき終着点に私たちはどう対処すべきなのか。巨匠に出てきてもらいましょう。フランス大革命の時代に生きた哲学者イマニエル=カントです。

 

 彼は統制的理念と構成的理念という言葉を使って思索をしていました。解りやすくいえば後者は一人あるいは少数のエリートが崇高な理念のために関係のないことは見向きもしないか、暴力的な排除を実行するものです。20世紀にはその代表としてマルクスレーニン主義というものがあった。90年代には、社会主義国ソ連は崩壊したし、中国もそれより早く鄧小平の改革解放路線は始まっていた。これは本当は私たちが描く夢にもそういった要素、他者排除の傾向はあるはず。

 

 もうひとつの理念、統制的理念が本当は肝心なのです。それは実現しえないゆえに重要で、それに近づこうとすれば蜃気楼のように姿が消える。なんとなく安吾が述べた故郷に似ていませんか?存在意義というのは現状批判としてのみです。カントは世界共和国というものを想定していたのですが、それを構成的理念とするなら一つの軍事的国家が完成するでしょう。そうではなく、永遠平和を目指す組織を置いていた、もちろん彼の存命に実現できるはずはないが。

 

 話は大上段に行ってしまいましたが、実現不可能な理念は絶対に必要だと思うのです。確かに人間は実績を積みあげていくことで自信が得られる。しかし、形而上学的な理念もまた行動の原動力なのです。

 

 くりかえしますが、故郷は度々戻って安らぎを得るものではない、目指すべき目標も決して達成することはない。道半ばで私たちは息絶えるのです。

 

 原動力を持たない下心だけの夢、意義というものがいかに卑小なものかを私は柄谷行人マクベス論から引用して終わりにしたい。

 

ハムレットは中途半端に死に、オセローは自殺する。が、マクベスは自決することで英雄らしさをわずかでも確保しようなどとはしない。あるいは会心の姿勢を示したりはしない。ハムレットやオセローにとって、死は最後の自己劇化であり、最後の意味回復である。マクベスに馬鹿げて見えたのは、自分をどんな形であれ運命的存在たらしめようとする欲求そのものである。

           柄谷行人マクベス論』

 

 マクベスは死ぬまでに一人でも多くの目の前にいる敵を倒すことを考えて死んだのです。ここにノスタルジーの入る余地はありません。 

 

 

 

意味という病 (講談社文芸文庫)

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