文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

真面目に働くということは生きることに不真面目?

 工場勤務をしていると、生産ラインに入って懸命に働いている人を見ると悲しく歯痒い気分になる。おそらく家のローン、子供の養育費その他もろもろの生活費を抱えて働いていることだろう。

 

 家族を背負うというと美談に聞こえるのだが、あまりに敷かれたレールの上を何の疑いも持たず、歩いてきたんだろうなと思う。「この私」という単独性が存在していない。意識せずとも、寿命が来る前にすでに死を選んだのだ。

 

 

 今後ロボットがするであろう仕事を肩をたたかれるまで続ける気なのか。語弊はあるとしても、私は彼らは組織においては真面目なのかもしれないが、この世に立った一人しかいない「この私」というものに向き合うことに全く不真面目だと思う。鬱陶しいかもしれないが「人はなぜこの世に生まれてきたのか」の問いに答えることに不真面目なのだ。

 

 「そんなこと知るか、稼いで家庭を持ちあとは人生を謳歌すればいいんだ」という答えが返って来ればはいそれまでだが・・・。確かに私たちはたまたま人間に生まれて運がよかった。

 

 しかし、それでもこの宝くじに当たるような確率というものにたんなる偶然ではない意味を持たせたい。その問いに答えることを放棄した思考停止の群れが大衆であり集団なのだ。私は近年のIT革命に大いに期待している。仕事をはく奪されるというが、ロボットができる仕事を人間が死守すべきではないのだ。

 

 工員に限らずルーティーン作業はどんどんなくなるであろう。一人一人がクリエイティブな価値を生み出さなければならない時代に来ている。今から1世紀ほど前にカナダの社会学マクルーハンはいった。

 

 電気時代になるとその種々のサーボ機構のおかげで突如として人間は自由の身となり先立つ機械時代につきものであった機械的・専門主義的隷属状態から解放される。 機械と自動車によって馬が解放され娯楽の領域に投げ入れられたのと同様のことがオートメーションと人間の関係にも生じる。

 突然われわれは望みもしないのにある種解放された状態に放り出されそれによって内的な資質の緊張が強いられる。つまり自らが自らの主人となりしかも想像力豊かに社会に参加し得なくなるのだ。この一見運命とも思えるものによって、人間は社会の内にある芸術家という役割を担わされることになる。それが引き金となり、多くの人がこうはっきりと理解することになる。われわれはいつしか機械時代の断片化された単純な反復作業に逃れられないほど依存しきっていたのだと。

     マクルーハン「メディア論―人間の拡張」     

 

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 

 

 自分の頭で考えてこなかったものには、過酷に聞こえるがこれからは必ず知性の時代になると思う。ただし、学歴というものは全く無縁だ。哲学・文学と格闘して思考の基盤をつくる。そのうえで多くの情報に触れ、それに対する判断を下し行動を起こす。本当の実力の時代がやってくるはずだ。

 

 教育も変わらざるを得ないだろう。この引用の手前にマクルーハンは教育の問題にも触れていたのだ。機械時代は大学の断片的専門性を指し、電気時代は深みと相互連関性を備えた一般教養が逆説的に必須となるのだと。

 

 前回の記事で計画経済を基礎に置く社会主義革命家レーニンの教育論も引用したのでそれも参考にしてほしい。

 

 

www.legendaryletter.net

 

 

www.legendaryletter.net