文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

古い価値観の崩壊 -家族・義務教育・サラリーマン

戦後政策は軍国主義から民主主義に急転換されました。

 

 これほどの急激さはないのですが決して緩やかとはいえない価値観の変化が迫られています。

 

私たちが自明視している家族・義務教育・サラリーマンという制度が度々ボディーブローを受けています。これらはいずれも協調性に重きを置く。 そして今頻繁にマスコミのゴシップとなるのが「格差社会」ですね。平均的家族、夫がサラリーマンで妻・こども二人の核家族がグローバリゼーションと先進国のデフレでジリ貧に陥ってきているのは周りを見渡せばよくわかります。私見ではサラリーマンが窮乏化しているのは、そこの組織が生産性を重視していないからである。日本の場合それは顕著です。

 

 

  1. 家族  
  2. 義務教育
  3. サラリーマン

 

1.家族

 ⅰ)江戸の家族

 そもそも、家族制度というのは江戸時代に農民が構成員を増やし懸命働いて何とか食つなぐためにできたものであったといわれている。

 

 ところが

 

 江戸時代の最初の百年(17世紀)は人口は急激に伸びたが、次の百年(18世紀)はピタッと停滞するのです。日本史専攻の学者与那覇潤さんによると、これは生産手段(相続した土地)が限られているから子供を産みすぎたら身の破滅を意味するためらしいです。

 

 そんな状況で、次男以下は悲惨です。大垣藩のとある村では江戸時代の最後の100年で年に働きに出た男女394人のうち奉公の終了理由で一番多いのが死亡で126人です。3割を超えている。与那覇氏はいいます。

 

 「江戸・大坂の家族は、太平洋戦争以上に死亡率の多い職場」「姥捨て山は偽の江戸、孫捨て都市が真の江戸」

 

ⅱ)近代家族

 開国したものの、その20年後の1890年代からは農家であろうと、炭鉱であろうと生産活動を行う単位としての家族は消滅してきたのです。その長である父親に権力はなくなりただそこは共同生活をするだけの場になってしまった。

 

 そして大正時代に来た第一次大戦の特需で大工場で働く父親の稼ぎのみで妻と子供を食べさせることができるようになったのです。今の地点でそれを見ると、日本の近代家族の成立がどれほど歪なものかわかりますね

 

 大正末期は「イエ」の周囲にあった村というセーフティーネットはなくなり、父親が過労死したり事故死した場合、または浮気で逃げた場合、母親の賃金のみでは子供の面倒は見切れない。それで当時はムチャクチャ親子心中が多かったそうです。ALWAYS 3丁目の夕日」で昭和家族の義理人情を真に受ける視聴者を与那覇さんは無知な人間だと言い切っておられます。

 

 私たちは、家族愛を儒教の教えに沿って自明視すべきではないのです。もちろん、それを創り上げていこうとする者は生涯をかけて邁進していってほしいですが。

 

 

 

 

2.義務教育

ⅰ)学校行事

 学校は協調性を育てるための場といわれる。とくに、文化祭・体育祭・修学旅行。それらは班・クラスという単位でコーラスやダンスを何日かかけて練習する。修学旅行は

中学高校時代のビッグイベントといえよう。

 

 私個人の経験といたしましては中学時代というのはちっとも面白くなかったですね。青春を送れなかったことを恥じ入っていましたが、後になると青春時代が輝かしいものであった人って結構少ないです。高校2年生の時は神様が授けてくれたのではないかと思えるくらい素敵な思い出を残せましたが。それはそれは貴重なもので今でも心の支えにしています。 

 つまり、かかわりあう人間というのが先生方の恣意的決定で生徒にとっては運・不運のクラス編成そしてその中でくじ・じゃんけんで決定される班編成がすべてというわけです。個人の選別の働かないグループとの共同作業、実験学習、学校行事がなされる。80年、90年だいの青春ドラマはそれをもとに描かれてはいますが、実はその裏には隠微な支配体制や窮屈さから生まれるいじめ問題もあるのです。

 

 

ⅱ) 富国強兵とともに併設された制度

 あのロシア革命首謀者レーニンの計画社会主義理論にも「学校」と重要性は述べられています。何を教えるかという内容はさほど必要ではなく、それはもっとも組織形成に効果を持つからなのです。日本の教育の場合なら、儒教という簡単に言えば「親孝行」なのですが、明治期の農民・町民の子にはそれはピンと来なかったはず。なぜなら、江戸の武士階級が自らの地位を正当づけるイデオロギーだったからです。つまり実際、生活から切り離されたところでそれを教えることが味噌なのです。今の先生方にその意識があるかは知れませんが。

 

人によってはお化けにしか見えないこの工場こそ、プロレタリアートを結合し、訓練し、彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労・非搾取人階層の先頭に立たせたところの、資本主義的協業の最高形態に他ならない。(中略)ブルジョワ・インテリゲンティアがなかなか獲得できないこの規律と組織を、プロレタリアートは、まさしくこの工場という「学校」のおかげで,きわめて容易に自分のものにしてしまう。

         レーニン「一歩前進、二歩後退」

  大人や先生が理想とする「真の子供」「真の人間」というのはフィクションにすぎない。レーニンは意識していましたが、学校の最大使命である<協調>がもたらす結末を意識せずとも彼らも立派な独裁者ということになるのです。資本制生産が始まる前は、熟練労働者は遊ぶように仕事をしていたのかもしれない。ところが、オートメーション化は彼らの仕事を「労働」にしたのです。そして「学校」は成長の場というよりも産業資本に不可欠な<大人/子供><仕事/遊び>の分割に一役買ったわけです。

 

帝国主義―資本主義の最高の段階としての (岩波文庫 白 134-1)

帝国主義―資本主義の最高の段階としての (岩波文庫 白 134-1)

 

 

 いかがでしょうか。「学校など社会に出れば役に立たない」といわれますが、人間に思考停止をもたらすための恐るべき制度なのです。産業資本生産が存続するためにはどうしても「学校」も生き残らねばならないのです。

 

 

3.サラリーマン

  正確なデーターは持ち合わせてはいませんが、私のいる製造現場において直接部門と間接部門にかかる人件費がほぼ五分五分ではないかと思えるほどで、いま相当ヤバいです。社員同士つらい労働には目をつぶりましょう、何とか派遣・非正規のかたに製造はまかせましょうというわけです。また、営業という職にしても人づてに聞いた話ですと、ある商品を買ってもらった。今度はお返しにその顧客がすすめる生命保険に加入しようとか、互酬原理、助け合いの原理が働いているそうなのです。

 

 かつては階級闘争の側にいた労働者が、高度成長期を経て総中流に昇りつめた。エネルギーの要る闘争はやめましょう!むしろ、資本家の方が冷や汗ものかもしれないし、中小・零細の社長など年収において上場企業の社員の足元にも及んでいないのがほとんどではないでしょうか。

 

 また、私が20代だった頃ですがバブル期で、フリーターというのは正社員を見下していたのを覚えています。フリーターが今のように見下されることはなくむしろ正社員より優位にいた。モラトリアムというんでしょう、自分たちの人生が決まってしまうことを恐れていたのです。贅沢をいわなければ就職はそれほど難しくなかったのですからね。

 

  それから約30年、どうですか。ニートは同情できませんが就職意欲のある人が活躍できない国になってしまった。ここ10年は正社員が今度は派遣社員、アルバイトに無理難題を押し付けふんぞりかえっていますよね。そして中間管理職(経営側)は上と下から挟まれ鬱状態あるいは壊れてしまっていますしね。

 

 「サラリーマン」という得体のしれない肩書はもう制度疲労がきています。良し悪しはありますが、いよいよ本格的な情報社会は到来してきています。先進国の場合とくに製造業中心の産業構造では立ち行かない。それに加え、産業資本生産に不可欠な義務教育がもはや機能していないのです。これまで自明とされていた家族、義務教育、サラリーマンの在り方は抜本的に変革を迫られるのは確かでしょう。

 

 

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