文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

語学教師に何が残されているか(2)

  1. 作品、生産
  2. 脱構築とテクスト
  3. 生き物としての言葉  

1.作品、生産

語学教師に何が残されているのかというテーマの続きです。

 ITの顕著な進歩によって90%近い職業はなくなると前に言いましたが、そうした場合学者とくにグーグルの翻訳技術にいかに対抗できるのかは彼らの彼女らの拠り所となるはずです。もちろん、仕事がなくなるということは極端に言えば物価も下落するのだからあまり働く必要もないかもしれませんが。ただし、自分たちの存在理由を問い続けるものにとってそうはいかないでしょう。

 

 職業としての教員が不要になるということに照らし合わせて、マルクスの『資本論』から取りあげます。蜜蜂と人間の労働の違いをいっています。蜜蜂は初めから終わりにかけて計画通りに蜜を生産する。ところが「人間は歴史をつくるが思うようにではない」とか「人間は彼がつくっていることを知らない」というのです。

 

 人間という生き物は勝手気まま、恣意的に生きているという意味ではありません。大事なのは、人間は作品においても、他者においても距離をとることは不可能なのです。もちろん、「つながり」や近年流行語となった「絆」のことを言っているわけではありません。個々人の意志を超えた社会的関係のなかに気づけばそこにいたということなのです。ひきこもりやニートといわれる人にしろ必ず知れないところで世の中と関わっているはず。食べさせてもらっているとしても、親を経由してコメを作っている農家と見えないところで関わり、その農家も自分たちの作物をそのニートが食べているとはわからないのですから。これは「人間であるという運命」対馬斉)なのでしょう。

 

 マルクスは生産、作品という概念をここでは放棄しているのです。

 言語は意識と同じように古い。そして言語は意識と同じように他の人間との交通の欲望、その必要から初めて発生する。一つの関係が存在するばあいにはそれは私にとって存在する。動物は何物にも「関係する」ことなく、また一般に関係しない。動物にとっては他のものへのその関係は、関係としては存在しない。したがって意識ははじめからすでに一つの社会的産物であり、そして一般に人間が存在する限りそうであるほかない。

          『ドイツイデオロギー』 カール=マルクス

 

  

 難しいことをいっていますが、「関係する」というのはキーワードでしょうね。対象とのズレ、齟齬があってはじめて言語が生まれる。しかも、他者との関係に委ねられている以上、真意は絶対に伝わることなく社会に網の目に張り巡らされた関係というネットワークを流れていくわけです。

 

 マルクスの出版物はエンゲルスとの共作が多いのですが、ふたりの違いに注目した本を紹介しておきます。前者がアナーキスト(破壊と無秩序を好むという意味ではない)で後者が計画社会主義者です。

 

人間であるという運命―マルクスの存在思想

人間であるという運命―マルクスの存在思想

 

 

「作品」へのこだわりは作者、意識、主体に行き着きます。そこにここで述べた「関係」は存在しなくなる。なぜなら、「始まり(原因)」と「終わり(結果)」がはっきり見えている状態でありますから対象と距離があるのです。

 

 

2.脱構築とテクスト

 作品は作者とペアになっていますが、テクストの定義は「文章そのもの」です。構造主義者が好むもので、主体という概念を追っ払っていますね。ところが文芸批評家のいうテクストはそうではないと思います。作家自身もみえず足掻いている関係構造を抽出することではないでしょうか。

 

 テクストが意義を持ち始めるのは、作者の生活と芸術作品を断絶させるところであります。そうでなければ、読者は作家の生活を覗き見するだけで、批評家はその水先案内人になる。現国でもそうだったのですが、太宰治の私生活はああだったからこのように読むという具合です。

 

 マルセル=プルーストは「私の生活を調べても私を理解できない。作品を読んでもらえばそこに『深い自我』が表現されている」といったそうですがこの場合の作品とは、ここでいうテクストです。テクストを読むのは解釈の問題ではありません。それは「作品」を解消することテクストを作品にしてしまう一義性・中心化を除去することなのです。そうすれば「深い自我」に出会えるというのです。

 

 マルクスも同様である。彼が分業と交通のテクスチュアの自然成長性が「論理学上の対立」をそこに持ち込むことによって ヘーゲル的な「歴史」に変形されてしまうと考えたとき、彼は歴史を「作品」としてでなく「テクスト」として読もうとしていたのである。マルクスのいうイデオロギーとは「作品」に他ならない。しかしテクストをそれ自体として取り出すことはできない。それはいつも「作品」あるいは「構造」をいったん受け入れながら、それを揺さぶることでしかありえない。

         柄谷行人「作品とテクスト」

 

 

  私はここに、言語学者に何が残されているのかのヒントがあるように思えます。 

 

3.生き物としての言葉

 近年、IT技術の進歩で英語を学ぶ必要はないという議論がなされていますが、それに対し今のところ私は反駁することはできません。だから、学校で仕方なく勉強をする必要はないという意見に賛成です。

 

 ただし、効率が悪かろうと自分で原文を読み解釈していくことに喜びを持つ人、つまり趣味で英文読解をしている人に対して否定することはないのです。

 

 言葉さえも物質と考える唯物論者は、それを単なる概念の伝達手段とは考えません。私たち凡人はまず辞書や読書を通してある概念を認識し、それから言葉でそれを表現すると考えます。他方、詩人、唯物論者にとってはまず言葉ありきですね。そしてそれがイメージをつくる。認知能力よりも根底に言葉があるわけです。

 

 意識が先か、言葉が先かというニワトリとタマゴの議論は連綿と続いていますが、それは置いておいて私たちは表現手段だけで言葉を考えるべきではない。人間の認識能力との関係で言葉を考えるべきなのです。だから英語を学習する意義は、英文を日本語には訳していても英文にそって認知、表現できないといけないでしょうね。あえて、日本語にするとしてもそれは前から訳し下す必要があるはずです。

 

 ある大学の入試問題で、言葉と思想の関連を扱う優れた題材を発見しました。

Wordpower is to the mind what horsepower is to a car.  Just as gasoline is the fuel of a car, so ideas are the fuel which keeps the mind running.  But there has to be a way of turning this fuel into something real.  In a car there is an engine which turns the fuel into motive power.  In the mind we have "words" which take ideas and group them together to make them real and usable.  Words are convenience package.  With the right word you may express a complicated idea that would be difficult to express without that word.

(訳例)

言語が持つ力と思考の関係は馬力と車の関係に相当する。ガソリンが車の燃料であるように概念は思考を働かせ続ける燃料なのだ。しかしこの燃料をなにか現実のものに替える方法がなくてはならない。車には燃料を動力に替えるエンジンがある。思考については、私たちは言葉を持っていてそれが概念を拾い上げまとめることで 現実のもの、役に立つものにする。言葉は便利な入れ物なのだ。正しい言葉をもてば、その言葉がなければ表現が困難な複雑に入り組んだ概念を表現できるだろう。

                (和歌山大)

 

言葉はモノ、エンジンなのです。日本語には日本語の情緒、英語には英語の力があるのです。