文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

形式主義とヒューマニズム

形式主義の台頭  19世紀後半から20世紀初頭

特徴

  1. 自然・出来事・知覚・指示対象から乖離することによって人工的・自律的な世界を構築する。
  2. 指示対象・意味(内容)を括弧に入れて意味のない任意の記号(項)の関係(あるいは差異)の関係の体系と一定の変換規則を見ようとする。

 

80年代初期「内省と遡行」において柄谷行人がなそうとしたことは形式化の徹底、そして「形式化しえないもの」を見出すことです。

 

内省と遡行 (講談社学術文庫)

内省と遡行 (講談社学術文庫)

 

  形式化はいろいろな分野で行われたのですが、彼は数学においてそれをなそうとしたのです。その理由はもっとも客観的と思われている特権領域を非特権化するためなのです。

 

 そこであげられるフッサールという数学者であり現象学者は、形式化があらゆる領域にまで侵入しようとしたときに「哲学に何が残されているのか?」を問い始めました。彼の後継者ハイデッガーは生・文化・社会の特権化を回復しようとしたのですが、フッサール現象学はそれとは異質で人間主義を唱えるものではありません

 

 哲学者が論理学の<数学化的>諸理論に抵抗して、自分のかりそめの養子たちを彼らの生みの親に渡そうとしないとすれば、自己の自然の権利領域を逸脱しているのは、数学者ではなく哲学者である。哲学的論理学者は推論の数学的諸論理を好んで過小評価するが、しかしそのような軽視は、これらの理論の場合も厳密に展開されたあらゆる理論の場合と同様、数学的な論述形式が唯一の学的形式であることを、すなわち体系的な完結性と完全性を与え、そしてあらゆる可能な諸問題とそれらの解決の可能な諸形式とを概観させる唯一の形式であることを少しも変えはしない。

 

 しかし、あらゆる本来的理論の研究が数学者の領分に属するとすれば哲学者に一体何が残されているのであろうか。

    フッサール  『論理学研究Ⅰ』

 

 

ただしこの完結性というのが曲者なのです

 

 形式数学は真であるかどうかは置いといて無矛盾性にその基礎を置いたのです。だからその証明は直観主義者も納得させねばならない。それがヒルベルトのいう‟メタ数学”でありそれによって無矛盾性を証明するわけですが形式体系を証明しようとすれば結局知覚・感覚の世界に戻ってしまうのです。ゲーデルという数学者の「不完全性理論」は底にある決定不能を形式化で隠蔽していることをさらしたことになりますね

 ①直観 → ②形式化 → ③メタ数学 → ①直観 とこの循環は続くのです。

 

 フッサールの場合もおなじです。「哲学者に何が残されているか」というのは「形式化の起源」に遡行することにほかなりません。形式的・イデア的なものは「生活世界」に存在すると考えそこは単一組織内の多様性とは違い様々な価値観が混合する多中心世界なのです。その過剰性を禁止する目的が形式化・論理化というわけなのですね。

 

 

「哲学」にも「人間」にも特権的立場はない。人工知能に対し人間はいかに人間らしくいられるかをポジティブに言うことはできません。人間が人間でいられるのは無根拠、基礎の不在の中にいるという認識しかないわけです。論理というのはその中で要請されるものなのでしょう。 

 

 

フッサールが生きた1930年代は、ファシズムの熱狂とスターリニズムの人工的設計がしのぎを削っていた時期で、彼はその間で考えどちらも選ばなかったのです。

 

kenji-tokuda902.hateblo.jp

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でもそのことに関する例文を取り上げています。

 

どうぞ寄ってみてください。