文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

おカネを甘く見てはいけない!

カネは手段だろうか?

 

 今では、あくせく嫌な仕事を我慢して無駄な時間を浪費するサラリーマンを啓蒙する人がいます。たとえば、

  1. 初期費用をおさえる
  2. 利益率の高い商品・サービスを売る
  3. 定期収入の確保
  4. 在庫を持たない

 これさえ押さえておけば、ネットビジネスは成功するからサラリーマンをやめ起業した方がいいよといってくれます。確かに現在のネットインフラは10年前に想像していたことを凌駕しています。有益な情報はスマホ一つあれば充分。カーシェアー、シェアハウスなども普及しだし、多額の預金なんて必要ない。それどころか、年収の5,6倍もするマイホーム購入に30年ローンを組むなんざ狂気の沙汰なのかもしれません。最後までカネに縛られ続けるでしょうね。

 

 命の次に大事なのはカネではない、情報だ。

 

 だが、こうした宣言は何も今から始まったことではないです。そもそも経済学では重商主義という用語があります。絶対君主が国家を上げて貿易を邁進させ貨幣・金属を蓄積する政策です。それに対し、古典派、自由主義経済学者らは「おカネは物の価値を測る尺度にすぎない」そんなものを貯めても仕方がないといって創り上げた経済理論の最も基礎が需要/供給関数ではないでしょうか。「売る=買う」が前提となっているのです。この数式(情報)を知れば貨幣蓄積の必要はない。

 

 堀江貴文さんは技術の進歩が、労働という概念をなくすといっています。遊びが労働になるといっていますが実はそれは共産主義社会の完成した形なのです。19世紀に生きた思想家カール=マルクスも予見していたことなのです。

 共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、自分の腕を磨くことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を昼に魚取りをし、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも決して漁師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである。

     「ドイツ・イデオロギー」 カール=マルクス

  マルクスが固定された活動範囲をもたなくてよいというのは堀江さんが「職人の道を究める」ということに退屈な生き方だ、自己欺瞞ではないのかということと見事にマッチしています。ここでいう社会の管理というのは、閉ざされた組織のことをおもってはいけないのです。諸個人間の偶然性を伴う関係を指しているはずです。

 

 ただ、労働が遊びになるには資本に転化する貨幣(蓄積目的の貨幣)に従属する形の労働であってはいけないのです(ネットの普及でそれがただの記号にすぎなくなるとも言っておられますが)。たとえば、震災現場でのボランティア活動では通常の勤務以上にキツイ、キタナイ作業も嬉々としてやっておられますよね。

 

 堀江さんは、近い将来だれもがクリエイティブな活動家になれるし、サラリーマンという守銭奴はいなくなるだろうといっています。資本主義から社会主義共産主義への過程を生産技術の進歩という自然史的にみているわけですが果たしてそうでしょうか?私は倫理的介入は必要と思います。

 

 マルクスは資本主義・資本家を道義上批判したわけではありません。資本家と労働者が置かれる関係構造を掌握し、廃棄しようと考えていたのです。その関係とは<労働者ー資本家>ではなくて<商品ー貨幣>というマテリアルな関係が根底にあります。資本というのはそれ自体が自己増殖する運動体であって、資本家はその人格的な担い手にすぎないのです

 

 マルクスはこの<商品―貨幣>の関係を価値形態論で展開していったわけであります。単純な価値形態

         

         z量の商品A = u量の商品B   ①

 

 この等式はひっくり返して u量の商品B=z量の商品A にも書き換えられる。ここで大事なことは右辺に来る商品が左辺にある商品の価値を与えるから交換が可能になるということです。次に拡大された価値形態

      

      z量の商品A = u量の商品B

       〃     = v量の商品C

       〃     = w量の商品D

       〃     = x量の商品E      ②

 

 市場経済の広がりとともに価値を与える商品も増えます。もちろん商品Aもその立場に立ちえるのです。そして最後に貨幣形態

 

      商品 = 貨幣       ③

 

これは、右辺に来る商品が他の商品を排除し価値を与える権利を独占した形態で、そこで初めて貨幣と呼ばれるようになるのです。価値形態論は貨幣経済の発展を論じているのではありません。一見③の形式の成立で交換が安定しているかに見えます。②においては中心がありませんからね。もう一つ遡れば赤字の①はどちらの商品も右辺つまり買う立場に立とうと争っているのです。価値形態論の肝は、互いが排除しあうこの①の単純な価値形態論の隠蔽なわけです。

 

 ですが、この貨幣の誕生も動物の生態系の比喩を用いて面白い喩えをしています。ここでは貨幣形態を形態Ⅲ、リンネルという商品が貨幣になったときのことをこういいます。

 形態Ⅲにおいては、リンネルはすべての他の商品にとっての等価物の類形態としてあらわれる。それはちょうど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科、等々を形成している獅子や虎や兎やその他すべての現実の動物たちと相並んで、かつそれらのほかに、まだなお動物というもの、すなわち動物界全体の個体的化身が存在しているようなものである。このような、同じもののすべての現実に存在する種をそれ自身のうちに包括している個体は、動物、神、等々のように一つの一般的なものである。

        『資本論』初版 まえがき  カール=マルクス

 

 

池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

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 こうしてみると貨幣は手段ではないことは明らかです。それは売る立場からの逃避なのです。事業を起こす人も気づかないとしてもモノを売ることを避けることから商売をするというパラドクスをもっているのです。

  

 2000-2003年頃地域通貨が各地で流行しました。私も社会人でありながら大学院に在籍し、修士論文でその研究を行ったのですが指導教員のいい加減さに幻滅し中途退学したのです。当時は、今と同じようにデフレ下にあったため地域経済の活性化、法廷通貨の補助的要素にすぎなかった。今日、銀行ではマイナス金利に焦っていますが地域通貨にもそういうのはあったのです。まあほとんどお子様銀行券レベルで相手にされていませんでしたが。

 

 社会主義を自然史過程とみるならビットコインのような仮想通貨が力を発揮するでしょう、だがそこに、倫理的介入が必要ならもう一度地域通貨の見直しは避けられないはずです。

    

 

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社+α文庫)

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仮想通貨革命---ビットコインは始まりにすぎない

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