文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

「現実」と現実感 ~文学者の立場からネット社会をみる  

ポストモダンを生きること

  1. インターネットによる産業構造の変化
  2. 文学者にとってのネット社会がもたらす疎外感
  3. 現にある諸条件の肯定

 

1.インターネットによる産業構造の変化

 インターネット社会の黎明期が過ぎ、本格的に世の中が変化しつつあるのを感じる。まず、少品種大量生産型の製造業は凋落しているのが、リストラ、株価の下落などの報道から見て取れる。そして、流通業・大型店舗は軒並み閉店し、残っているところも平日なら客より従業員の数の方が多いくらいだ。

 

 だからといって、外を見渡しても新たな雇用を生み出しているわけではなくコストカットの効率性を上げているのみだ。つい最近では、電通の女子従業員が過労による心身衰弱で自殺したというニュースがあった。当然、遺族またはそこの従業員は電通の経営者の責任を追及すべきであろう。しかし私たち部外者がブラック企業告発すべきではない。マルクスのいう剰余価値(搾取)は資本の有機的構成が高いところが、低いところから吸い上げている。

 

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 同業のグーグルは、人件費を最小限に抑え残業をさせていないから素晴らしいと考えるのは早計。搾取は生産の場のみならず、消費過程においてももたらされる長時間労働・低賃金下の人海戦術を主流とする企業の労働者世帯は、コストカットに成功した企業の商品を買うわけだがその段階で搾取=exploitは成立する。

 

 まあ、正規雇用が増えることはないし、私たち中年の終身雇用が今後10年保証されるわけではないことは確か。ならば、ほんとうに経済的自立を模索することは必要不可欠といえよう。そこでネット社会は大いに利用する価値がある。そもそもそれが、これまでの会社を危機に追い込んできたのだから。

 

 そこで、ネット社会の今後の見通しを語りたい。

 

 

2.文学者にとってのネット社会がもたらす疎外感

 

 負の側面は、リアルの世界との齟齬から生じる疎外感だろう。それすらない今は人間が動物化しつつある。70年代初頭においても、文芸評論家であった柄谷行人は「もう思想と文学のなかに闇を見出すことはできない」といった。「ここでいう闇」というのはもちろん、作家の内面、葛藤を指す。ツイッターでこれまで以上にデモなど抗議運動は可能なのだが見かけの華々しさに対しさにたいし彼らに「現実感」を持ち得ているのかというと疑問は残る。現代のSEALSは当時の左翼急進派以上に疎外感を抱いているのではないか。彼らは現実を変えようという気はさらさらない気がする。必死で現実を希求しているのだ。

 

大出版社ではすでにコンピューターを用いて出版計画を立てているという。まことに結構なことだ。なぜならそれは我々の意識がほとんど計量可能なものとして存在していることを意味するにすぎないからである。われわれの意識が「存在」 でありモノであることに正比例して、計量可能性も増大する。ジャーナリズムの公害も何もあったものではない。「闇」を喪失してなすすべないくせに威張りたがる「公害作家」「公害評論家」が文句をつける筋合いはどこにもないのである。ヒロシマやオキナワについて告発するアンガージュマン作家が巨額の富を獲得し、埴谷雄高を学生向けに解説した高橋和巳や適度に薄めた「闇」を女学生向けに売っている五木寛之らがベストセラー作家になっていることはもっともでありご同慶に堪えぬ。ただ私にはそういう自己欺瞞を自らに許すことができないだけだ。  

 「自然的なあまりに自然的な・・・」 柄谷行人

 

 

3.現にある諸条件の肯定

 わたしは、今はいまはなき”文学”が好きだったのでネット社会を疎外感から否定してしまったが、では正の側面は何か。やはりそれは会社内の共同体、地域コミュニティーひいては血縁家族の呪縛からも解放し単位が個人・自由になっていくことではあるまいか。

 

 自費出版にしてもそれまでは一か八かの勝負に出ねばならなかった。ところが今ではPDFファイルを自分で商品化してノーリスクで売ることもできる。少額であろうとも現金獲得の機会は組織に従属することなくありえる。もちろんマーケティングリサーチは必要だし、消費者協同組合のネットワークも組織しなければいけないとは思うが。

 

 インターネットの弊害はいろいろあるだろうがそれは現実のものなのだ。楽観してはいけないが悲観してもいけない。マルクスのいうコミュニズムは「現実の矛盾を止揚する現実的な運動でそれは現実的な諸前提から生まれる」。今ならそれはインターネットに見いだせる。そもそもそれはアメリカの軍事防衛策として生まれ資本によって活用されているがビットコインなど見ればわかるように国家通貨への対抗にもなりうる。

 

 近代主義者に見える坂口安吾だが、彼はそんなものをこえている。

 見たところのスマートだけでは、真に美なるものとはなりえない。すべては実質の問題だ。美しさのための美しさは素直ではなく、結局本当のものではないのである。要するに空虚なのだ。そうして空虚なものはその真実なものによって人を打つことは決してなく詮ずるところ、あってもなくてもかまわない代物である。法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば法隆寺を取り壊して停車場をつくるがいい。(中略)それが真に必要ならば、必ずそこに真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして真に生活する限り猿真似を恥じることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも独走と同一の優越があるのである。

     「日本文化史観」  坂口安吾

 

私たちは、いま俗にいう「ポストモダン」を生きているわけだが、この安吾の言葉はいまだに含蓄がある。