文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

数学はごった煮

 

 

 先に、コミュニケーション、他者論についてはなしたが、もう少し補足しておこうと思う。 

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  1.  <話す―聞く>レベル    モノローグ的関係
  2. 思い出させるという次元   類的本質(規則)の回復         
  3. <教える―学ぶ>レベル   カオスのなかの関係

1<話す―聞く>レベル

 一般的な公教育 

 共通の規則・道徳が前提でそこで善悪は測られる。決定事項ゆえにそこに対話はない。言語学の文法、物理・数学などの公式を基礎にさまざまな問題を解いていく。厳しくいえば教師は<教え>てはいない。話しているだけ、生徒は聞いているだけ(ノートは取っているがただ覚えるためのもの) 。

 

 日本のサラリーマンは与えられた指示には迅速に対処できるが、アクシデントにはたじろぎ意思決定は遅れる、だとか教育の最高峰にいる東大生は官僚としては優秀であっても創造力はないだとかはよく言われてきたセリフだ。こういうのは、軍隊・工場組織に力を発揮する。

 

 わかりやすく説明できることが素晴らしいというのはそういうことなんだろう。そういう人物を育てることなんだろう。またたとえ難解な記号を駆使した数式でもそれを仮説にとどめていない限り、単一体系に閉じ込められている。以前に書いたが、19世紀にユークリッド幾何に対して、リーマンだったと思うが「平行線は交わる」という公理を持ち出して「数学の危機」という事態を引き起こした人物を思い出してほしい。

 

 

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  結果としては、そのおかげでユークリッド幾何学は発展したのだ。”平面”がユークリッドの球面を、‟点”が球面上の点、‟直線”がその球の大円を指すとみなすことで。ウィットゲンシュタインが言ったように数学は初めから遊びであり応用なのだ

 

 それに比べると単一体系は弁証法的に真理へ至る過程ともよく似ている。ソクラテスが死刑を受け入れた訳はプラトンによると彼が対話を頑なに信じたためであるがその裁判における対話というものが単一体系、つまり<話す―聞く>の形式であることは言うまでもない。ソクラテスはたとえ判決が誤っていようがそれが真理への過程なら甘んじて受け入れるというのだ。

 

    英文読解の実践~ 独我論

 

2.思い出させるという次元

 これは<話す―聞く>レベルの関係と通底するところがある。人間の疎外された類的本質を取り戻そうというのだ。プラトンの『メノン』より抜粋しよう。

ソクラテス だから、魂は不死であって、しばしば生まれ変わってきていて、この世や霊界にあるもの、つまりすべての事物を見てきているから、何一つ学んでいないものはないのだ。したがって、徳についても他の事柄についても、少なくともすでに前に知っていたところのものを、想起することができるのに何の不思議もないわけだ。なぜなら自然の本質はすべて同種であり、魂はそのすべてを学びつくしているから、ただ一つを想起するならば、-実に人々はそのことを学習と呼んでいるのだがー、他のすべてを発見することに何の妨げもないわけだ、もしも人が勇敢であってひるまず探求さえすれば。なぜなら、つまり、探求することや学習することは、全体として想起に他ならないからだ。だから、この争論的議論を信じてはいけない。というのはこの論は我々を怠惰にするだろうし、また軟弱な人には聞いて快いものだからだ。が、今の私のこの論は、われわれを勤勉に探求的にする私はそれを真であると信じ、君とともにこの徳が何であるかを探求したいと思うのだ。

 

 このソクラテスがいったことだから本当のソクラテスがいったかどうかは定かではない。プラトン自身の考えかもしれない。ただいいたいことは

真実は一つだ

  に尽きる。

「それぞれが勝手に意見を主張しても仕方がない。同じやり方で手分けして根底にある真理を発掘しようではないか。」ということなのだ。ここはウィットゲンシュタインの「数学は初めから応用数学だ」に相反するものだ。プラトンの数学はこうなる

 合理的であるということは対話を前提とすることに等しい。証明が強いている条件はそれが他者と”共同で真理を求める”ことによって成立することに限る。数学が権威ある学問であるのはその範囲が一つの主観を大きく超えているからだ。

 しかし、数学が本質的にこの力を持っているのではない。数学が真理を生み出す威力は、正当な対話の中で生き残ったもののみを数学と認めるプラトンの命題から派生する。プラトン以降、数学の証明は間主観的認識とみなされるようになり、その範囲は個人の見識を超えて拡張している。

     [Solipsism    Kojin Karatani]     訳 徳田健司

                                       

 

Architecture as Metaphor: Language, Number, Money (Writing Architecture)

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3.<教える―学ぶ>レベル  カオスのなかの関係

 私たちが使っている言葉というのは太古の昔から使われ続けているものではあるが、それは共同体の外部、外人とのかかわりから連続性は絶たれながらにも存在している。

 

諸言語に共通の規則はない」とウィトゲンシュタインはいう。 文法なるものはコミュニケーションの「命がけの飛躍」の後にできたものにすぎないと。 つまり数学の場合と同様、基礎はない。「家族的類似性」があるのみなのだ。

 

彼がいいたいことは、物事の本質または原理を問う哲学はコミュニケーションの社会性=多様性=カオスを隠蔽してしまうということである。

 「言語の意味はその用法である」               

 これは実践こそがすべてだというプラグマティズムとは無縁だ。言葉に内的意味はないのだから、<教える―学ぶ>、他者との関係のレベルに降りていかねばならないという倫理の問題なのだから。

 

哲学探究

哲学探究

 

 

 付け加えておくが、ここでいう倫理は道徳とは異なる。それは事前の問題だからだ。柄谷行人は「堕落論」などを書いた坂口安吾に倫理を見出す。安吾はいった。

モラルがないこと、突き放すこと、私はこれが文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか、社会性とかいうものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思うものなのです。       「文学のふるさと

 

 

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