文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

コミュニケーションの根底はカオス、基礎の不在

 

 

 IT化の普及とともに「情報社会」という語がようやく真実味を帯びてきた気がする。

 

モノローグ的情報収集

 確か、30年前高校1年の現代社会の教科書の中に「私たちは今や情報社会にいる」というような文面に出会ったことがあるがはっきり言って何のことを言っているのか分からなかった。今思えば、もう少し遡ること60年代の高度成長期にカラーテレビの恩恵を一般労働者にも受けられるようになり、操作された画一的な情報がmass(大衆)に垂れ流されるだけの事だったのではないか。当時、小学生が描く図画がほとんど鉄腕アトムで染まっていたという話も聞いた。

 

 しかし今は違う。性格かつ貴重な情報をひとはスマホひとつで自由に受けることができる。これまでは命の次に何が大切かという問いに、一斉に「カネ」と答えられていた。でも、これからは命の次に大切なのは情報でまちがいない。だが・・

 

 

 しかし肝心なことは情報の発信ー収集が<話す―聞く>の次元にあることに注意しないといけない。哲学者柄谷行人がいうにはそのコミュニケーションは対称的、独白のようなものにすぎない。それよりも根底・基礎にあるのは<教える―学ぶ>という非対称的な関係だ。そこにおいて双方に共通の規則はない。カオスの世界といえるだろう。学校の先生は教える側に優位があると思っているが、それはたんに同一規則を前提として<話>ているだけである。むしろ、学ぶ側がいかようにも解釈できるのだからどちらかといえばそっちが優位かもしれない。

 

探究(1) (講談社学術文庫)

探究(1) (講談社学術文庫)

 

 

コミュニケーションの根底は基礎の不在 

 柄谷は、<教える―学ぶ>の具体例として言葉を知らない子供、異なる言語を持つ外国人、といった他者との関係を上げている。中学1年ではじめて英語を私たちは学んだ。だが、そこでの先生は事後的にできた文法を教えているにすぎない。本当はそれより前に非対称的関係、カオスがあったにもかかわらず。先生は話している、生徒は聞いている、そこにコミュニケーションはありえない。

 

 

 

 私たちは、生きた情報を得るためにはまず前提の異なる言語、とくにカノン(古典)との格闘がなければならない。それは時空間の異なる他者の典型なのだから。「何を言っとるのかさっぱり判らん」で済ましてはいけない。モノローグ世界では、言葉があって意味がうまれるのだが、対話の世界は差異から情報を獲得できるわけだ。それを通過しなければ情報は見ているだけ、すぐにどこかに行ってしまうであろう。

 

 

 哲学者柄谷行人は、他者論に取り組んでいたころ哲学者とよれることに嫌悪感を持っていた。哲学には真理、理念が共通の前提となっているからだ。その背景には、共産主義国の中国・ソ連の惨状があったからだ。いまは、その肩書を甘んじて受け入れるようになったのか、自ら進んで名乗っているのかはわからない。興味のある人は彼がカントを援用して唱えている「統制的理念」というものを解読してほしい。

 

 

だから、カノンと外国語は大切

 いま私は、英文法・構造分析から内容を理解するというやり方に異を唱え、その間に情報構造(表現)分析を取り入れる必要を感じ新しい参考書を作るというたどたどしい道を歩んでいる。

kenji-tokuda902.hateblo.jp

 

 また、宣伝で申し訳ないのですが今日のテーマに沿った「独我論」についての英文解釈した本を電子書籍化しました。あくまでも、柄谷行人の「探求」を理解したうえで購読してほしいと思います。

英文読解の実践~ 独我論