文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

挫折を抱き続けよう!

 輪廻転生について真剣に考えてみた。

 

 もちろん、宗教・形而上学的に考えたわけではない。一人の人間が生まれたときから死に至るまで過去⇒現在⇒未来へとつながっているのだが、この流れに違和感がなければ今ある現実が転生ともいえなくはない。過去とは決別しながらも、転生とは同一性を前提としているのだから。 だがどうだろう、過去を引きずり続けている男、女は転生に失敗したことにならないだろうか?そして今に違和を感じている。

 

 

 ユダヤ教は「偶像崇拝の禁止」で成り立つ。どういうことかというと知覚・感覚で捉える神を否定し、神の世界は現実・現象にはなくプラトンの言うイデア・超越したところにある。<現象/本質>と完全に分割をしたのだ。その派生であり否定であるキリスト教はどうか?大澤真幸流に解釈するなら現実のさらなる否定、現象の限界(私の解釈なら現実における挫折)はイデア、理想の世界へ一瞬ではあるが重なる。それがなぜイデアとつながるのかということだが彼は三島由紀夫の『金閣寺』を取り上げる。

 

金閣寺』の主人公は、父親からずっと金閣寺の美を聞かされてきた。ところが現実の金閣寺を見せられた時ちっとも胸を打つものがない。つまり、金閣寺の美はイデアの世界にあって現に見ている,知覚している建物には白けた感じしか持ちえないのだ。ところが、太平洋戦争の終盤に現象としてある金閣寺が焼き滅ぼされようとしているときに主人公はやけに愛着を感じるようになったのである。つまり未来がない、転生の失敗だ。仏教では転生は現実の世界をやり直せという悪い意味でつかわれる事を思い出した。だから解脱(滅亡)、イデアの世界に反転するのがよいことになる。

 

今まではこの建築の、普及の時間が私を圧し、私を隔てていたのに、やがて焼夷弾の火に焼かれるその運命は、私たちの運命にすり寄ってきた。〔中略〕この美しいものが遠からず灰になるのだ、と私は思った。それによって、心象の金閣と現実の金閣とは、絵絹を透かしてなぞって描いた絵を、元の絵の上に重ね合わせるように、徐々にその細部が重なり合い、〔中略〕金閣はもはや不動の建築ではなかった。それはいわば現象のはかなさの象徴に化した。現実の金閣は、こう思うことによって、心象の金閣に劣らず美しいものになったのである。

 

 主人公は、自分を哀れな金閣寺とクローズアップさせる。かれは吃音というコンプレックスをもつ。現象の世界で挫折しているわけで今在ること違和感で前へ進めない。要するに転生できない。大澤の論文で私が読めたのはこれは安易に克服すべきではないということである。違和を感じながらとどまり続けなければならないと。転生してはいけない、挫折を抱き続けることが現実(現象)と理想(本質)が交差する場となるのだ。現実の三島由紀夫は、転生を目指したのだろうか。それとも天皇の不憫を見かねてユダヤ教イデアに葬ろうとしたのだろうか。『金閣寺』の主人公が、終戦後、金閣寺が元のさやに収まり美を失った建物になり果てたことに耐えきれず放火してしまったように。三島由紀夫にはいろんな解釈をさせられる。

 

 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 
金閣寺 (1956年)

金閣寺 (1956年)

 

 

 柄谷行人の「HISTORY AND REPETITION」から三島由紀夫の自刃について書かれたものがあります。英語版なので、英語の学習に焦点を絞って私なりに解説してみました。有料ですので興味のある方はどうぞご購入をお願いします。

英文読解の実演~三島由紀夫と天皇