文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

ほんとうの快楽を得よう!

1.身体のみの快楽は受け身

 「快楽主義のすすめ」とかいうたぐいの本はあまり好きではないのですが、ストレス社会、自殺の増加そういったものを考えるとやはり人間どこかで魂を解放しなければいけない。

 

 ところでなぜ快楽主義者が嫌なのかといいますと、考えることを放棄した、感性の身に生きるという人間の特権を手放しているかのように見えるからです。事実、快楽主義者の澁澤龍彦はカントを厳格主義の堅物、マルクスをたんに科学的社会主義者と結び付け簡単に処理しています。。さらに遡ると哲学の先駆者ソクラテスまでもそのはぐらかしだけを取り上げて狸おやじというわけですから。

 

 ただ、澁澤には澁澤の哲学、思想はあるのです。ただ、読者を惹きつけるのに好んで奇抜な表現、あるいは敢えて怒らせるようなレトリックは用いていますが。彼の思想は端的にいうと

 

 レジャーの誘惑に負けるな!

 

これに尽きるのです。快楽主義、エピクロス派の彼がなぜ「レジャーに時間を費やす

な!」などというのでしょうか?

 

2.資本への対抗

 そこには資本主義への抵抗があるのです。

 資本の鉄則は、私たちのレジャーにも、抜け目なく手を伸ばします。労働対策の中核には、すでに資本家側の余暇善用対策が置かれ始めていることを忘れてはなりますまい。サラリーマンは職場においてばかりでなく、私生活でも組織化されようとしています。さらに、レジャーを楽しもうとする民衆の凄まじいエネルギーによって消費の欲望がどんどん掻き立てられれば、資本の側にとっては、もっけの幸いというものではありますまいか。こうして、愚かな民衆は、働いているときも、また血眼になってレジャーを楽しんでいるときも、自らそれと気づくことなく、資本の懐を肥やしているという結果になります。

   「快楽主義の哲学」

 

 労働➡余暇その回路をぐるぐる回っている人生の消耗をやめにしないか、本当の快楽はそんなところにはないといいたいのですね。これは1960年代高度経済成長期に書かれたエッセイですが、「失われた20年」という長期のデフレにおいても何とか安上がりでわずかばかりの効用関数を上げようとする労働者である消費者にもこの警告は役に立ちますね。彼らは死ぬまでこの単純再生産を続けるわけです。

 

 現在は、60年代に得られたマイホーム、マイカーは手に入りにくくなっています。多くのサラリーマンはやっているかもしれませんが年収の何倍ものローンを組むことは狂気の沙汰ですよね。澁澤の時代ならヒッピーのように労働を放棄し生産社会と絶縁しようかという消極的な策に出るか、性的快楽を追及するかのいずれかになるかもしれません。彼の快楽主義哲学は堂々巡りしていることを自ら認めています。

 

3.ナイーブに語れない人間の解放

 しかし、今は猛烈にIT化があらゆる分野に浸透しています。デフレで仕事がなくなるのではなく、仕事をしなくてもよい時代に突入しつつあるのかもしれない。澁澤は

 

 「快楽は発見だ。」

 

で「快楽主義の哲学」を結んでいます。つまりパチンコ、ゴルフ、レジャーランドなど与えられたもので満足するな、資本の望み通りだぞというわけなのです。アメリカの社会学マクルーハンも半世紀以上も前に「誰もが芸術家になる、否なるよりほかない社会の到来を予測していたのです。

 

 機会と自動車によって馬が解放され、娯楽の領域に投げ入れられたのと同様のことが、オートメーションと人間の関係にも生じる。突然われわれは望みもしないのにある種解放された状態に放り込まれ、それによって内的な資質の緊張が強いられる。つまり自らが自らの主人となり、しかも想像力豊かに社会に参加せざるを得ないのだ。

     「メディア論ー 人間の拡張の様相」

 

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相