文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

たった一人しかいない自分

 「人間とは何か?」今日は大上段から語ってみたいと思います。

集団、パターンにいることの虚しさ

 僕の考えでは、人間というのは他の動物に比べてワンランクあるいは数段上の生き物というものではありません。「人間には共通の本質がない」ということが人間の本質だと思っています。デカルト、カントによれば他の動物と違い「理性」を備えているというのですがここはあえて伏せておきたいのです。理性という実体を明るみにできませんので。

 人が生きていくのに所得は確保すべきで就職は必要になるし、結婚という制度のもとで安心して家庭を築くことだってやってもらいたい。休みには、ストレス解消でゴルフに興じたり、イオンモールでショッピングというのもありです。

 

 でもこの労働➡余暇という単純再生産型の回路でたった一つしかない人生を終えてしまって構わないのですか?人間であることの逃避だと思う。グループ、パラダイムに安住することへの逃避なのです。1960年代の高度成長期、いまから半世紀以上も前に痛切と愛情をもってサラリーマンを批判した快楽主義の作家がいました。今読んでみてもこれを受け止められる懐があれば、大いに参考になることと存じます。

 

 

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

 

 

 

人間の宿命、単独者であるということ

 一人だけしかいない自分、内面化できない他者と向き合うべきではないでしょうか。孤独と不安こそが宿命なのでしょうね。

 例えば、東大生も一般大衆の特殊であることを目指してきた人が多いと思います。エリートになって完結するというのも福沢諭吉先生によれば他の動物そう変わりはしないということでしょう。特殊性よりも大衆から乖離した単独性、外部性にこだわりたいですね。ただしこれは、一人孤立するということだはありません。外部との関係がない以上それは小さな集団に安住することと何ら変わりませんので。

 

 日本人は18歳で勉強を終えてしまう国とある予備校教師からいわれたことがありましたが、大衆から特殊に辿り着いたということなのでしょう。 単独者、大衆の外部にいるものは死ぬまで勉強を続けるはずです。疑い続けるはずです。

 

 「近代文学は終わった」と宣言したのは文芸評論家の肩書を持つ柄谷行人さんです。それはグローバリゼーション、パソコン、スマホいやもっと遡ればテレビなどのマス―メディアの普及と相俟って人間、他者を均質化することが容易になった。エンターテイメントとしての文学は人を突き放すものではなく共感、同情を誘うもので、いうなれば消費されることを目的とするのです。文芸評論家から批評家に立場を変えたときに、熱愛小説についてこう書いておられます。

ある個体への過剰な固執は、したがってその単独性とはむしろ無縁であるといわねばならない。プラトンがいったように、エロスとは一般性(イデア)への愛である。一般的にいって、情熱恋愛(passionate love)は単独性とは無縁である。(中略)したがって、どんな恋愛も潜在的または顕在的な三角関係に基づいている。ライヴァルがいなくなれば情熱恋愛は終わる。要するに、情熱恋愛においては、この相手(他者)が問題なのではなく、第三者(他者)、あるいは一般者が問題なのだ。そこではこの他者というこだわりがあるようにみえて、実はこの他者が徹底的に不在である。             「探求Ⅱ」 

 

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)

 

 柄谷さんのいう「近代文学の終わり」は‟文学”の終わりを意味しません。大文字の カテゴライズされた文学が終わったにすぎないのです。私たちは容易に生まれながらに持っている文学を様々な文明のツールで隠蔽できます。また、今巷にある暴露本は作家にとってとるに足らないもののはずです。ただしやむに已まれぬ動機から人は引け目に思っていること、抱えているコンプレックスを表出することもあるのではないでしょうか。