文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

中野重治「村の家」

今週のお題「プレゼントしたい本」

 私がプレゼントしたい本は中野重治の「村の家」です。特に浪人しながら大学受験を目指している人にお勧めですね。今の大学に関する周囲の声は「あんなところで学べるものは何もない、大教室など教授の声は聞こえないし、黒板の文字を書き写しているだけ」だとか「Aランク以外の国立大卒でないと就職のためのブランドにもならない、起業して失敗した方が多くを得られるなど」が典型です。そうした多勢に対し心底、勉強をしたい人に送りたい。

 

 それではプロレタリア文学の白眉、中野重治の登場です。<政治と文学>という2分割に異を唱えるわけです。「村の家」では非合法な政治活動をして転向し作家になった主人公の勉次に対しその父孫三は「筆を折れ!」と迫ります。それはもっともに聞こえます。政治で負けて今度は文学で勝とうとするのは甘い。

 「よう考えない。わが身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。里見なんかちゅう男は土方に行ってるちゅうじゃないかいして。あれは別じゃろうが、一番堅いやり方じゃ。またまっとうな人の道なんじゃ。土方でも何でもやって、その中から書くもんが出てきたら、その時にゃ書くもよかろう。それまでやめたァおとっさんも言やせん。しかし、わが身を生かそうと思うたら、とにかく五年と八年とァ筆を断て。これがおとっさんの考えじゃ。おとっさんら学識ァないが、これはおとっさんだけじゃない。誰しも反対はあるまいと思う。七十年の経験割り出ていうんじゃ。」

                      「村の家」

 ここでは土方といっていますが、今風に言えば「大学行くぐらいならその入学金で起業しろ、失敗してもそれが財産になる」みたいなことを言うわけですね。とにかく浪人生なんて肩書もないし肩身が狭い。予備校に通えばなおさらです。それでも私たちの「知」に対する姿勢はこの主人公、勉次のものでないといけない。勉次は世話になっているのに何かそこに罠のような漠然とした気持ちがあった。破廉恥かもしれないが一言答えるのです。「よくわかりますが、やはり書いていきたいと思います

  中野はべつのところでこの孫三のことを農本ファシストといっています。知識人、知を愛する者に対して<職人>を持ち出しているのですから。もちろん、<職人>が言う<知識人>になってはいけない。勉次の「やはり書いていきたいと思います」という一言にはこのような意味があるのではないでしょうか。

 

 転向作家が転向によって失ったのは第一義的生活であって、第二義的、第三義的生活はまだ残されているとみるなぞは甘い考え方である。彼らは(僕らは)、第一義を失ったことで第二義も第三義もすべて一挙に失ったのである。(中略)もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的総合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ち出した自己批判をとおして日本の革命運動の伝統の革命運動に加われたならば、ぼくらは、その時も過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬあざを頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。

            『文学者に就いて」中野重治

  かなり硬派な文ですが、心底学びたいと思っている人にとって、多勢に対して引け目を感じている人にとって、中野重治は必読です。流されることなく学んでください。

 

 

村の家・おじさんの話・歌のわかれ (講談社文芸文庫)
 

 

 

中野重治評論集 (平凡社ライブラリー)

中野重治評論集 (平凡社ライブラリー)