文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

もうひとつの労働運動

従来の労働運動

 長期にわたるデフレで私たち多くのサラリーマンの給与は上がっていません。あるいは減額され続けている方もいるかもしれないし、昇給や管理職手当があっても税や社会保障費でごっそり持っていかれますよね。そして上場企業でないと、内部留保や役員給与がどの程度なのか想像できない。こうした状況でこれまでのようなストライキに意味があるのでしょうか?

 

 労働者は企業と国家ごとに分断されています。かつて「全国の労働者よ!一致団結せよ!」というスローガンが国際的共産主義組織(第二インターナショナル)によって唱えられましたが、第一次世界大戦で各国の社会主義者も労働者も戦争支持に回ってしまったのです。今は資本のグローバル化で国境は消滅しつつあるという人がいるが楽観視していると思いますね。国家を甘く見ています。以前に資本、ネーション、国家は補完しあいながら強固につながっているという記事を書きましたので遡ってほしいのですが。

 

kenji-tokuda902.hatenablog.com

 

資本家と労働者は主人と奴隷ではない

 では、所属する企業内での運動も国際的階級闘争も無力だとしたらなにがのこっているのでしょうか?私は資本家と労働者の関係が主人と奴隷の関係だとは思えません。ストライキというのは主人が奴隷の労働に依存していることをわからせるためのものですが、それは封建社会の論理で資本制社会の論理ではありません。マルクスの『資本論』は利潤と剰余価値を区別しています。利潤は単純に生産価格から費用価格を引いたもので表せるのですが、剰余価値(実は労働者への搾取)はもっと複雑でそれが発生する仕組みは流通過程においても目を向けないといけないのです。

 

 少し複雑ですが詳しい説明がなされているので引用します。

 マルクスは『資本論』第3巻で、次のように利潤率と剰余価値率を区別する。利潤率は、剰余価値を可変資本(労働力)と不変資本(原料、生産手段など)の総和から見た割合であり、剰余価値は、可変資本(労働力)から見た割合である。ここで剰余価値率が一定であると仮定すると、不変資本の割合の多い資本では、利潤率が低くなるはずである。しかるに、どの部門の資本でも、平均的利潤率が確保されるのはなぜなのか。(中略)

 マルクスは有機的構成において低いものと高いものが違った部門として空間的に併存することと、資本一般が有機的構成において低い段階から高い段階へ時間的に移行することを、同じことだとみなしている。後者の場合には、相対的剰余価値が得られる。それを逆に空間的な位相に転換すれば、有機的構成の高い方が低い方から相対的剰余価値を獲得すると考えられる。たとえば、極端なケースとして、すべてがオートメーション化されロボットによって生産できるような企業について考えてみよう。すると、ここでは可変資本文はゼロであり剰余価値率はゼロである。にもかかわらず、平均利潤率が確保される。マルクスはそれを総資本の総剰余価値が生産価格を通して配分されているからだと考える。そのような資本は労働者を直接搾取していないが、他の個別資本のもとで働く労働者を間接的に搾取しているのである。

        柄谷行人トランスクリティーク

     

 

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

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創造的な労働運動

 そうすると、労働者の運動は資本制の商品を買わないという不買運動につながるのですが、そのためには非資本制商品を買うための受け皿が必要になりますね。今でいうと生協のようなものがどんどん進出してこなければいけません。消費者でもある労働者が自分たちのほしいものを進言する必要があるのです。上で引用されているロボット化は現状況ではAI (人工知能)など見れば明らかですが一層真実味を帯びてきましたね。

 

 また、プロレタリアートは生産手段を持たないものと定義されていますが、いま私たちが何気なく使っているスマホは、かつてリクルート事件で話題となったスーパーコンピュータ並みの機能を持つそうです。道のりは困難ですが方向性は分かっています。労働運動はストライキではいけない、消費者としての想像力も不可欠なのです。