文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

読書感想文に反対! もうひとつの本の読み方

 中学・高校での夏休みの課題として読書感想文がずっと続いているのだが、あれってどうなのだろう。小学生が童話を読んで感受性を育てていくことには口を挟むつもりはないのだが中高生が小説を読みその感想を書くというのにはどうも引っかかる。やはり高度な評論文、定番としては小林秀雄丸山眞男あたりと格闘して要約、つまり彼らの言いたいことをまとめることに集中してほしい。その過程で誤読は許される。その後に反論や付け加えたい内容を持っているのならそれを記述するという方針をとればいいのだ。

 

 感想を書くというのはどうも作品に迎合する感があるし受動的で主体性を持ちえないと私は考えている。解りやすい文が素晴らしいということの落とし穴もここにあるのではないだろうか。1+1=2であるというように読者との対話は拒まれている、あるいは無意識に高みから見下ろしていることになる。小林や丸山の文章が難解なのは彼らも必死で考えたのでありこう表現するほかなかったのだ。

 

 それでは感情移入しないために小説はどう読むべきなのか。これは大学レベルの講義になるのだが、20世紀前半から始まる構造主義、ロシアフォルマリズムは文学作品を内容ではなく自律的な言語そのものの世界として分析・批評する。今の大学でこれほどの教養を与えてくれるかどうかは疑問だが、かつては大学に入学するための試験でこんな英文が出題された。

 

I scarcely think  we could any of us claim that in reaging a novel we deliberately watch the book itself, rather than the scenes and figures it suggests, or that we seek to construct an image of the book, page by page, while its form is gradually exposed to us.  

 

意訳「私の考えでは、だれであれ、こんなふうに主張できるものなどいないと思うのだが、小説を読んでいるときに念入りに注意を払うべきなのは、そこに描かれている場面や人物ではなく、書物そのもののほうであって、その書物のイメージを構成しようと努めながらページを追っていると、書物の形式が次第に現れてくるのだ。              (横浜市立大学

 

 一文だがなんと高度なセンテンスなのだろう!小説に大衆小説と純文学を区別することは愚劣だが、単なる慰めもの(消費物)に終わるのか世界を変える芸術作品かのちがいは意識すべきだ。19世紀の批評またはいまの現国でもやっていると思うが芥川龍之介太宰治の生活がこうだったから彼らの作品もこう読むべきだという。読者は作家の私生活を覗き見するために読み、批評家はその水先案内人というわけだ。

 

 それにしても入試で卒業レベルの知が要求されているのに、入れば全く教養が与えられない。講座名は立派であるにかかわらず。私も最近、文系の生徒が電車に乗って先生の話を聞きに行く、あるいはノートに書き写すということに疑問を抱いている。だが、4年間という猶予が与えられているならアパートで数冊の古典と格闘する時期にしてしまえば大学時代の価値はある。否、そこにしかないだろう。

 

 『失われた時を求めて』のマルセル・プルーストの言葉がある。「私の生活を調べても私を理解できない。作品を読んでもらえばそこに『深い自我』が表現されている。」

 

 ただ作品、プルーストの言う深い自我は構造をいったん受け入れながらそれを揺さぶることでしかありえない。言語学ソシュール言語学を樹立しながらそれを解体するという一人二役を演じた。