文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

二つの闘争 ~国家と世間

 高畑容疑者の事件とその親である女優高畑淳子さんの謝罪を見て即座に思い出したのが私がリスペクトする柄谷行人さんのカント論だ。彼の考えのほとんどが私の思考のベースになっている。近代国家では自由というものは人間の貴重な権利とされている。しかし実際そのようなものはない。私たちが自由意思と考えているものは何らかによって刷り込まれ動かされたものにすぎない。だとすれば、高畑容疑者には自由意志というものがない以上責任は免れることになる。そこで出てくるのはカントの道徳「自由であれ」という命令だ。世界は決定づけられておりその項である個人も然りである。でもそれを引き受けろ!という。

 柄谷氏による円地文子の「食卓のない家」の批評は含蓄がある。連合赤軍事件をモデルにしたもので実際は首謀者の父は辞職し、もう一人の父は自殺した。柄谷氏はこの二人に憤りを感じたのだ。この小説で評したのは会社の幹部である父親が世間の非難轟々の渦中にあって辞職せず、つまり自分の責任を認めず息子の自由を尊重したことである。息子に「自由であれ」という命題を背負わせたことである。

しかし、この父親のような態度をとることは日本においては大変な勇気と決断を必要とするのです。それはもう一つの闘争です。そして、円地文子はこの闘争を連合赤軍の闘争よりもはるかに重要だと思っていたはずです。だから、この作品には二つの闘争がある。一つは国家権力との闘争で息子はこれを最後まで貫き、アラブの日本赤軍に合流します。他方、父親の闘争は「世間」との闘争です。それは別に平和的なわけではない。息子の闘争が同志の大量虐殺に行き着いたように、父親の闘争は 娘の破談、妻の死という家族の崩壊に及ぶからです。だから別の登場人物(次男)がこの父親についてこういっています。《お父さんは、兄貴の事件の時には、ちょっとすごく見えるくらい冷静な顔をしていた…僕、兄さんたちのやったことより、お父さんのほうが気味悪く見えたもの》。

         『倫理21』柄谷行人

柄谷氏は道徳と倫理を峻別している。前者は「共同体」が課す善悪基準で後者はカントが言う「自由」である。高畑淳子さんは前者の直接被害を及ぼしたわけではない「世間」に謝罪した。彼女は謝るべきではなかったしこれからもずっと女優をつづけ自分の倫理を模索するよりほかはない。