文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

私のふるさとと安吾のふるさと

 誰にでも懐かしい時、大切なふるさとはあることだろう。過去はいつまでも振り返ってはいけないとはよく言われることだ。しかしふるさとというものと決別するのが果たして本道なのか。

 13世紀の哲学者だった、確かヴィクトル・・とかいう人はこういった。「故郷を甘美に思うものは嘴の黄色い未熟者で、あらゆる場所を故郷と思えるものはかなりの実力者、そして最後にあらゆる地を異郷と考えるものは完璧者だ」と。自身の拠り所のみを大切にするものは共同体主義者で、私はまだまだ嘴の黄色い未熟者ということになる。しかしすべての場を故郷とするのはマルクス=レーニン主義的な考えですべてを制御管理することが可能とみなすことにもなる。すべてを異郷とするものは拠り所となるものを禁止する、すべての人すべての地域に共通の規則・前提を排除し<他者>として接する覚悟を持つ者である。

 坂口安吾があるエッセイで取り上げた「赤ずきんちゃん」はシャルルペローがもともとはグリム童話であったものを上流階級向けに書き換えたものである。愛おしい赤ずきんちゃんは優しいおばあさんに会うため花束を持って出かけるのだがおばあさんに化けていた狼にムシャムシャ食べられてしまう。もとの童話では最後はハッピーエンドで少女は狼のお腹から脱出して助かることになるのだが、食べられてしまって終わらせたシャルルの作品に関してこういう。

私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

          「文学のふるさと

 根を下ろそうとした故郷に突き放される、その事実が文学のふるさとなのだ。疲れ果て甘美にしたろうとする未熟者、そして予定調和を予期するうぬぼれたものを突き放す、そこに私たちはふるさとを見出さないといけない。

私はこの坂口安吾の考える「ふるさと」が好きだ。もちろんすぐにノスタルジーにしたる自分への戒めもあるが、楽しいひと時を過ごした仲間たち、密かに思いを抱いていたかけがえのない異性が、そこに帰ろうとしたとき牙をむく存在になることもどこかで期待している。最後に付け加えたい逸話は安吾が自意識の塊とみなされてきた芥川龍之介の弁護だ。ある農民作家が貧乏ゆえに自分の子供を殺しそれを題材にした小説を彼のもとに持ってきた。放心状態に陥った芥川に関していう。

 とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば彼自身の生活が、根の下りていないためであったかもしれません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。

つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。

もし、作家というものが芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さっきの狂言のようなものを創りだすことはないでしょう。

モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度とは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性とかいうものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思うものです。

                       「文学のふるさと