文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

柄谷行人のカント論

 80年代の柄谷行人の仕事は、共通の規則を持たない他者論であった。理論的な仕事ではあるが内/外、コスモス/カオスの境界を無化しようとする文学者であった。だが89年ソ連崩壊、冷戦の終結で転機となる。それまで主観的道徳主義としか見ていなかったカントを再読するようになった。その読みによるとカントの理念は統制的理念で今の世代がどれだけ長生きしようと実現不可能なものでただ現状の峻厳たる監視をするのみだ。自然は世界人類が平和になるように設定している。しかしカントはナイーブではない。国際連盟国際連合を見ての通り世界平和への過程は人間の非社交的社交性、つまり戦争を通じてのことなのだ。彼の言う「自然の狡知」とはこのことなのだ。

 

 80年代において、柄谷も新左翼運動の幻滅から理念、大きな物語を持つことを拒絶し今ある矛盾を克服していくことが社会主義につながると思っていた。ただそうしていられたのは逆説的にもソ連が存続していられたからだ。大きな物語への挫折から傷ついた自我を守るためそれを嘲笑するのはいい。だが、社会主義は敗北したのだから現実主義になる、またはそこにある矛盾のみを揚棄すればいいというのは間違いだ。カントの「自然の狡知」に対しヘーゲルの「理性の狡知」は国益を求めた一国のヘゲモニー国家が世界の均衡をもたらすというリアルポリティシャンのものだ。その末路がアメリカ介入のイラク戦争である。社会主義への移行は自然史といえるがそれには甚大な犠牲が伴う。理念を捨てて相対的他者同士が好き勝手にやっていいことにはならない。

 

 柄谷の講演で印象に残った言葉は「理念を笑うものは、実は理念に笑われているだけなのです」ということだ。現在はグロバリゼーションで世界が資本の論理で呑み込まれた。労働組合社会主義国も世界資本主義の一役を担っているに過ぎない。彼は60歳からカントを再読しかつては拒絶していた哲学者の肩書を甘んじて受け入れるようになった。筋金入りの文学者だと思う。