文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

人間=無根拠な存在=詩人

 世界はそれを創造した神によって決定づけられている。人間が自由意思で行ったものと思っていてもそれははじめから神によって予定されたものだとするのは17世紀オランダの哲学者スピノザの思想だ。世界内存在の人間は世界を鳥瞰することなど不可能なのだ。これは20世紀初頭の物理学者アインシュタインの学説にも通じる。サイコロを振って1の目が出る確率は1/6ではない。0or1なのである。つまり決定論で1/6などというのは人間が数多くある隠れた変数(手首の振り具合、床の摩擦係数など)を知りえないからだ。「神は恣意的にサイコロを振らず」。

 だが量子力学の最先端は電子、光子は粒子でもあり波でもあるという説でアインシュタインの粒子説を覆したらしい。観察していないときは波として運動し、見つめていると粒子の状態というオカルトだ。詳細は省くが物質の基本単位は偶然性に左右されていることになる。20世紀の物理学は私たちが存在するための根拠は不在であるということを証明したことにならないだろうか。

 全共闘世代の代表格の思想家であり詩人でもありもともと理科畑にいた吉本隆明は学生時代に遠山啓の講義「量子力学の基礎」に震撼したという。純粋科学の基礎に「あまりにも人間的な」ものを見たというのだ。彼の詩に有名な次の句がある

僕が真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうという妄想によって 僕は廃人であるさうだ

 これについての柄谷行人の解釈はこうだ。

 吉本が真実を知っていてそれをいうのを我慢しているのではないということ。戦争の危機を解く啓蒙家のおしゃべり、他者との間で何かをしゃべっては言い尽くせない何かを感じ後悔しながらまた必死にしゃべりまくる自意識に対し今度こそはと思うのならなぜ沈黙できないのか。「俺は生涯戦う」と言ってはならない。それはできもしないことを言うなという意味ではない。口に出してしまう心の弱さが問題であり、この弱さは直ちに自己絶対化に陥る。ぼくらを強いる現実的相対条件を飛び越えることになる。

 吉本は大学教授にも就かず実践家としてひたすら労働運動を繰り返した。民衆からの支持を得ながらも自らの思想を強要する嫌悪をかくしながら。自分の考えが社会的流通言語(散文)に属しながらそこに苦痛を感じた人間、そこに満たされることのないしこり残留させていく人間それを詩人と呼んでいいのではないか。詩を書こうが書くまいが人間は詩人であるしかない。