文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

文学者とは

 怒り・妬み・悲しみといった気持ちは受動感情であるゆえ世界内存在の人間はそれらを超越することはできないとスピノザはいった。では自然に任せ放置しておけばどうなるか。それは際限なく拡大し人間を破滅させるにいたる。そこから離れるにはそうした感情が生じるのはなぜかということを「考える」しかない。

 テレビドラマなどでは不倫、復讐といったものを赤裸々に描かれてはいるがそれは受動感情にすぎず「知」の片鱗を見ることはない。また不朽の名作といわれる島崎藤村の『破戒』、小林多喜二の『蟹工船』も然り。部落差別で虐げられた人の悲痛の告白、階級闘争を主人/奴隷の弁証法で克服することではそれが引き起こす構造をとらえきれない。中上健次は同じ「路地」を扱う作家としてエッセイ集『紀州』において島崎を批判した。日本的なものである封建遺制を宿した歪な形での近代化そこに焦点を置いたのだ。カール=マルクスも自身はそう言わずとも文学者だ。社会主義革命の挫折後、10年以上もの間大英博物館にこもり『資本論』を書き続けた。資本主義についての問題機制を<資本家―労働者>に求めず<貨幣―商品>という非対称的な価値形態から派生する資本の自己増殖運動に置いた。資本家、経営者、労働者はその担い手にすぎない。

私の言う文学者は感受性というものを心の奥底に隠しけっして表現せず、その根源となる構造を抉り出すもののことを言う。ただし感受性がなければただ空疎な言葉を弄ぶイデオローグにすぎない。決して表に出してはいけないが裡に秘めておけねばならない感受性について柳田国男はある作家仲間にこういった。

 人間には誰しも怠け心があり酒を飲みに行きたいとふ気も必ずおこるのだが、その時眼頭に浮かぶのが自分の学資を紡ぎださうとする老いたる母の糸車で、それは現実的な、生きた「もの」である。ところが、私たち以後の人々は儒教を知的に理解してゐても、もはやそれを心そのものとはしてゐない。学問は何のためにするのか、✖✖博士などは、おそらく真理のため、世界文化のため、あるいは国学のためだといふだろうが、それらは要するに「もの」ではなく、宙に浮いた観念にすぎない。観念では学問的情熱を支えることができにくい。平穏無事な時勢は、それでも間にあふやうに見えるけれども、一たび嵐が吹き荒れると、そんなハイカラな観念など吹きとばされてしまふ。

         花田清輝柳田国男について」

  何と含蓄のある言葉だろう。今は、インターネットを使えば簡単に知にアクセスできる。だがその時にも「もの」=感受性でつかまなければそれは宙に浮いた観念になってしまうのだ。