文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

柄谷行人の軌跡

 私の本棚は柄谷行人さんが約3~4割を占めています(いろいろ読みはするのですがスペース上の問題から廃棄せざるを得ない本が多い)。彼はもともと文芸評論家という立場をとっていて夏目漱石有島武郎中野重治坂口安吾に関する評論は卓越していました。是非お勧めです。だが代表作『日本近代文学の起源』ではこうした作家はごくまれで日本には近代文学というものが実はなかったといいます。どういうことかというとその中のエッセイでは「風景の発見」「内面の発見」というのがありますがそこで言われていることは私小説における主体というものは政治的挫折とその忘却の産物ということです。最も標的とされているのが国木田独歩。『忘れえぬ人々』の主人公は人生において劇的な思い入れのある相手ではなく、二人が出遭った旅館の主人、つまりどうでもよい人をいつまでも覚えておくといった内容だったと思います。こうした倒錯が描写する「風景」「内面」こそがいわゆる<文学>で村上春樹まで引き継がれたのであるが村上以降はそのことすら忘れられていて無邪気に私小説を書いているのです。

 

 柄谷行人の真骨頂、文芸評論というジャンルは彼の中では消滅してしまったのです。エンターテイメントとしての文学は残ってはいますが。その後は理論的な仕事や他者論に取り組み、そして90年代に入っては文学者であった頃は軽侮していた哲学者カントを読み直したのです。当時、形而上学が嘲笑の的であったにもかかわらず理念をもう一度取り戻そうとしたカントを。冷戦構造の崩壊後も共産主義的理念を嘲笑するシニシズムが蔓延していました。資本主義の勝利で歴史は終焉したのだからあとは現実を見ればよいというように。でもそんなわけにはいかなかった。原理主義的宗教の擡頭があったからです。宗教批判は、それを必要とする現実の契機を揚棄することでしか終わることはない。彼は今でも筋金入りの文学者だと私は思っています。