文学者たちの痕跡

忘却されつつある文学者の闘争について書きとどめておきたいと思います。

天使と人間

 文芸評論家として始まった柄谷行人の思想はその後、論理的批評家そして哲学者へと変遷してきたわけだがテリトリーは広大かつ深遠だ。私は彼を読解する軸は『内省と遡行』という奇妙な作品のあとがきにあるとみた。デビュー作が原点とは限らないのである。この作品は、外部(のちの他者論に通じるもの)を希求するのであるがそこで2つのことを決めた。まず、外部をロマン的詩的に語ることは禁じた。それはもっとも安易で不毛な結果に終わるからだ。もう一つはそれを自明視するのも避けた。なぜならそれは内部(独我論)に属してしまうから。そのために自らを窮屈な場に閉じ込めそれを自壊する方法を選んだのだ。

 

 はじめは柄谷はこの書を体系的に完成させようとしたが、結論に至ることはなかったため窮した果てに未完の論文として出版するに至ったのである。柄谷は自分のことをプラトニストと自嘲していたが、つじつまを合わせることで完成させることを拒絶したのだ。無念であったろうが、5年後に文庫本化されたもののあとがきをよく読んでみよう。 

 

 先日、ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』をみて、『内省と遡行』以来の自分の仕事のことをぼんやりと考えた。 これは天使が、人間の女に恋して人間になるという話である。物語としては古いパターンであるが、ただこの天使たちはベルリンという都市の人々を見守ってきて、しかもベルリンがナチズムとスターリニズムのもとで荒廃するにいたるまで、無力でしかなかった天使たちなのである。つまり、天使として描かれているけれども、彼らはある種の人間のことだといってよい。それは、実践家ではなく、認識者であり、しかもどんな人間的実践にも物語にも幻滅したがゆえに二度とそれに加担することがなく、ただ実践が何も生み出さないことを確認するためだけに生きているというようなタイプの認識者である。

 天使たちには、地上の人々がどこにいようが見えるし、彼らの内心の声がすべて聞こえる。しかし天使たちは何も「経験」しないし、「知覚」しない。彼らが把握するのはいわば「形式」だけなのだ。彼らは人間の歴史をずっと見てきているが一度も生きたことがない。さらに彼らにとって歴史はたんに形式の変容でしかなく、何事もそこでは起こらない。つまり、歴史は存在しないのである。映画では彼らの世界はモノローグで描かれており、主人公の天使ダミエルが人間になったとたんにカラーに転じる。彼は自分の流した血を見て初めて色彩を経験するのだ。むろん色彩は一つの例でしかない。それはいわば「形式」の外部を経験するということである。

 天使ダミエルは人間になろうとする。それは天使たることの放棄であり有限で一回的な世界に生きることである。人間になるとは彼にとって、他者(女)を愛することである。そのとたんに彼は前方が見えない世界の中で生き始める。それは「暗闇の中での跳躍」である。天使たることとは何たる隔たりであろう。にもかかわらず、天使たちは人間になることを欲する。それは「外部」を経験するということである。

 

 形式的であること、それはいわば「天使」たることである。しかし現代の形式主義プラトン主義のように永遠を志向しているのではなく、もはや歴史が何一つ質的に新しいものをもたらしえないのではないかという疑いとつながっている。たとえば、われわれはいまだにブルジョワ革命が提出した理念をめぐって争っている。それを超えたつもりの「社会主義」はそれより後退してしまう。すると、われわれはヘーゲルのいうようにナポレオンとともに世界史は終わったというべきではないだろうか。むろんそういいうるのは、ヘーゲルの後の不毛な「歴史」を経験してこざるを得なかったからである。

 たとえば、「構造主義」とよばれた思想は歴史がもはや終わっていること、単なる形式的変形以外に意味などないことを宣告するものであったといっていいだろう。それはたんに反歴史的なのではなく、それ自体歴史的な認識であった。それは決して抽象的な話ではない。それはベルリンや広島で起こったことを考えるとき現実的な話なのだ。「天使」たることはすでにわれわれの願望ではなくて、生の条件なのである。

 いいかえると、「形式的」であることは別に特権的な事柄ではない。それはハイテク時代においてわれわれほとんどの日常的といってよいような生の条件である。われわれはそこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になっているだけで、実は天使と同じくモノクロームな世界、すなわち自己同一性の世界に閉じ込められているのである。私たちはブラウン管を通して血まみれの死体を見慣れているが、実際に血の色を見たことがないのだ。

 

 しかし、「天使」たることは不可欠でありかつ不可避的である。われわれはいちど徹底的に「形式的」となるのでないならば、「人間」にはなれないだろう。形式主義とは人間主義の死である。だがそこで初めて新しい「人間」について語りうるかもしれない。有限で一回的なこの生を肯定しうるような「人間」について。それはもと「天使」であったはずである。 

      『内省と遡行』文庫本のあとがき

 

 柄谷行人の著書は理解するのに苦労する。それにもかかわらず、私にとっては何度も読んでみたくなるものであった。ところが学校の課題で読書感想文というものがあるが、それはテクストを理解していることが大前提となっていて、それに関してどのような好感の持てる感想を書けるかが問われるにすぎない。私は読書というものはもっと誤読があってよいと思う。否、真偽の問題ではなくそれは多様な解釈を許すものなのだ。感想よりも、要約に重点を置く方が貴重な体験ができるはず。私はこの柄谷の著作の中でも難解といわれる『内省と遡行』、これを書いた真意をしばらく掘り起こしていきたい。

 

 

家族について

1.近代家族の特異性

 家族に対し嫌悪感を持っている人たちはそこに「愛情という名の束縛」に苛まれているからではないでしょうか。近代家族は自明視されすぎていますが、たかだか19世紀末の産物にすぎません。それがいびつであるのは丸山真男のいう民主化した個人がもたれ合うからです。集団に対する個人の意識・態度には4つあると前に述べました。どっぷり埋没した民主化した個人(個というべきではないが)、そこから疎外された個人、そこに背を向ける超越者、その中に入りながらも関係を持とうとする単独者。

  

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  もちろん多数派はリーダーや人気者を含む民主化した個人です。そもそも多数決の原理が働くのですから。ただし普通選挙のような秘密投票は特異なパターンで、実際は顔が見える場で拍手や挙手という意志表示が行われるわけですね(自由の根底は匿名)。こうした場では、まともに自分の意見をいう人は限られる。会社で真っ当なことをいえば家族が路頭に迷うことさえあるのです。出る杭は打たれるのだから周りと同じことをするのが無難というわけですね。

 

 皆さんの多くが体験しておられることでしょうが、民主化した組織とはこのように風通しの悪い場ともいえます。これは超越者にとっては嘲笑の的であり、自立した個人つまり単独者には退屈以外の何物でもない。スケープゴートはここに食らいつこうとするが、彼らは排除されることでこの組織は強固になります。

 こうした構造は家族にも当てはまると思います。共同体というのは共通の規則をもっています。会社ですと、営利目的(日本の場合好き嫌いも左右されるのでややこしいのですが)ですのでドライに対応できます。ところがそれが家族ですと愛という情念に支配されてしまう。この規則がマテリアルでないので、退屈か真綿で首を絞められるような気になりませんか。思い出してください。集まる機会があれば、幼少期・少年少女時代の思い出話かプロ野球あるいは旅行、、。要はあたりさわりのない無難な話題になる。単独者が好む反対意見なるものはなく単に趣味の違いが出てくる程度なのです。

 

2.近代家族の存在意義

 近代以前の家族は主に農業の経営体としての要員で構成されていました。江戸時代に入って稲作が本格化すると多くの人手がいりますから子供はそのためにつくられる生産手段だったのです。ところが中期の18世紀に入ると急激な人口増で彼らを養うことが難しくなります。地方の藩では次男三男は江戸に追い出された。奉公の終了理由が死亡であるというのが藩によっては4割近くあったそうです。これに関する調査をおこなったのが速水融という歴史学者ですが、彼曰く「姥捨て山はなかった、あるのは孫捨て都市」だと。所詮家族というのはそのようなもので、自然を相手に闘うためなりふり構わずつくられたのです。

 

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

 

  それでは、近代家族の意義は何か。これを見定めないといけません。夫がオフィスまたは工場で働き妻は育児と家事、子供はその夫婦としてでないと認知されない。そうして血の繋がりが第一義に置かれるようになったわけですがこれは明らかに国策です。家族⇒学校⇒会社員この流れは国家にとって税収という点で見ると最も都合がいいからです。家族愛などとは後でつけられた幻想にすぎないわけですね。

 

 元NHKアナウンサーの下重暁子さんは「家族という病」を出版されていますが、これにはほとんど共感しました。「一家団欒における食卓で主役は誰だと思います?」の問いに対してそれは「カラーテレビ」と答えられています。人間でないのですよ。メンバーは<家族>という集合を維持するための要員にすぎません。まあ愛情を確認し続けるだけの単純なものですが。にもかかわらずこの窮屈な場から退場するものは愛がないとか言われる。

 

家族という病 (幻冬舎新書)

家族という病 (幻冬舎新書)

 

 

 繰り返しになりますが、家族は砂上の楼閣なのです。自然はカオス、世界は多中心で あり人々はそのうえで生きるすべをもがきながらも築いた。ところが近代家族においてその存在は必要でなくなりました。愛という名のもとで辛うじてつなぎとめられているに過ぎないのです。

 

  私は前の記事で60年代のアメリカで黒人が暴力的差別・凌辱を受けながらも何十年とかけて新たな家族、新たな黒人と白人を創ったといいました。

 

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 相対的他者に対峙したとき、その不安定な場所で遭遇したとき 、共通の規則を持たないため暴力的行為が起こるかもしれない。60年代のアメリカで黒人差別の抗議デモが過激化したのですが、リチャード・ライトという黒人作家は憤懣をあらわにし抗議小説にその思いを託しました。それに対し、ボールドウィンは民主制度を求めたところで抽象的な法的存在と単純な労働力商品が産まれるだけと言い切ります。このことはそもそも家族は利害関係から始まり愛情というものは後に育まれるものだということですね。

 

 個としての関係をもつことは、民主化した者たちの価値基準<快―不快>より個々の主張として<真―偽>が重要になるであろうし、倫理的価値<善―悪>が要求される(既存の道徳とは違い、個人に根ざしたもの)。

 

 

 

最後に学生時代の読書会で読んだ近代家族を詳しく論じた書を挙げておきます。

 

21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)

21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アメリカの一黒人作家

1.許容と闘争という分裂を抱えて

 

 ジェームズ=ボールドウィン(1924-1987)は、アメリカでニグロである自分を意識するほど、激しい怒りの衝動に駆られ気が狂いそうなほど苦しんできました。どこかにぶつければ、殺人罪になるか、または自分が葬られる。彼にとってはどうすれば怒りを抑えることができるのか。そのことが最重要問題だったのです。ボールドウィンが言うように、黒人差別に対して取りうる態度には二つあります。一つは、あるがままの生活、あるがままの人生を怨恨なしに容認すること。しかし自己欺瞞の誘惑がありえないこともない。ふたつめが、もろもろの不正を断固許さず抗議運動や市民権の獲得といった形で闘争するのです。 

 

 ボールドウィンは「容認」と「闘争」という相反する行為を同時になそうとしたのです。至難の業です。個人的な意志で実践の場に立とうとする場合と意志を超えた関係や構造との断絶を自覚して、非情なまでに現実の構造を透視しようと努めたのです。この自覚がなければ、どのような緻密に見えようとも不徹底な理論になります。

 

 2.「容認」と「闘争」について、もうひとつ

 1848年、ヨーロッパの二月革命での挫折で現実の運動から退いて、パリからロンドンに渡り『資本論』を何十年も大英博物館にこもって書いていた男のことを記した本があります。対馬斉さんの『人間であるという運命』に沿って話します。貧富の問題を主人-奴隷の対立と捉えると本当の敵を見失う恐れがある。単純な貨幣-商品という非対称的な関係にこそ資本増殖の秘密があり、人間はその担い手に過ぎないのです。

 

《およそ革命には受動的な要素が、物質的な基礎が必要なのである》「ヘーゲル法哲学批判」

 

 社会には、人間が自分の意志信条に生命をかけて革命運動に臨んだところで変わるときには変わるし、変わらないときには変わらないという一種の自律的な法則を持っています。その社会法則が偏狭な精神・安易な希望に混合されないためにも諦観に徹することで『資本論』に結実させたといえます。それは、俗に言われる資本主義から社会主義への移行の必然を書いていません。暴力的な恐慌の必然性とそれによる資本主義の存続しか。しかし、社会主義への希望も『資本論』以外に見出せないのです。(社会主義が、ソ連や中国のようなものではないことだけつけくわえておきます)

 

 

3.性的エクスタシー(同一性)より相対的他者

 マルクスが見出した物質的基礎が貨幣-商品という形式ならば、ボールドウィンは人種差別の根底に近親相姦に遡行したといえるでしょう。だからこそ彼が最も批判したかったのが、リチャード=ライトらの人種差別撤廃を訴える抗議小説です。

 

けっきょく、抗議小説の狙いは、アフリカに乗り込んできた白人宣教師が、土人たちの裸体を蔽い、蒼ざめたイエスの腕に抱かせては奴隷にしてしまう、あの性急な熱意に実によく似てくるのだ。

            『万人の抗議小説』

 

 民主制、市民社会だのと騒いだところで、法的存在や労働力商品といった抽象人間が誕生するだけで男も女も、身分も貧富もありえないように見える。そんなもののために闘う必要があるのかと主張しているように思われます。

 

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  法と経済からどのように人間を抽象化しようとも性に基づく関係だけは個別なのですこれは生物学的な性に限らず、直接的あるいは対面関係も含めてもいいでしょう。黒人問題が法的権利の闘争の時代はライトが書いたころよりも100年以上も前に終わっているのです。

 

 日本もヨーロッパも、長い間かけて集団の性的結合、直接的な生の関係を通じて沈黙・安心の共同体を築き上げてきた。それに比べていきなり共同体から切り離された多民族からなるアメリカは暴力的な関係しかなかったのです。

 

 個人というものをそれを産み出したいっさいの力から切り離して考えることもできるというほとんど無意識的な想定が、アメリカ人の混乱の根底となっているように思われる。しかし、実は、この想定それ自体が国民の、祖先からの全的・自発的疎外の歴史という、アメリカの歴史の上に成り立っているのである。

        「アイデンティティの問題」

 

 

 アメリカ人はそのことに無意識に眼を背け、独特の過去を持った史上未曾有の国民を創出したとボールドウィンは言います。そして共同体の中核に「性」、「性」には共同体の可能性が開かれていると説いていました。だが最後にボールドウィンは、たとえ暴力と逃避をくり返したとしても、あるいは最悪の事態を招いたとしても何百年にもわたって相対的な他者と対面したことは賞賛に値すると書いています。(日本の場合だと、中国人、ブラジル人は日本から見た絶対的外国人ですね)

 

アメリカ大陸を舞台とする人種間のドラマが、新しい黒人を創造したばかりでなく新しい白人までも創造したということを、いよいよ認識するときが来た。いまもって白人が私をよそ者として見るという奢侈にふけるこのヨーロッパの村の単純さ、この単純さに通じるいかなる道もアメリカ人にはない。私はどんなアメリカ人にとっても事実上よそ者ではない。アメリカ人を他の国民から区別するものの一つは、黒人の生活にこれほど深くかかわりあったのはアメリカの白人だけであり、白人の生活にこれほど深くかかわりあったのはアメリカの黒人だけだということだ。この事実をそのあらゆるそのあらゆる含蓄とともに直視するとき、アメリカのニグロ問題の歴史はたんに恥辱であるのみならず、一つの偉業であったこともわかる。

      「スイスの寒村にて」

 

アメリカの息子のノート (1968年)

アメリカの息子のノート (1968年)

 

 

 

現実とは何か ~柄谷行人と考える

1.想像物にすぎない現実

「これが現実だ」と悲観的あるいは独断的に語る現実は現実ではない。私が一番腹立たしく思うのは、<現実>にどっぷりつかった現実主義者だ。右も左もわからない社会に出たての若者あるいは少しひきこもっている人に、したり顔で社会の厳しさを説くのだがそれが居酒屋などで行っている光景は辟易してしまう。

 

 ついでにもう一ついうと、うだつの上がらないサラリーマンの自己正当化、和解する現実がある中流と思っている彼らが想像物でしかない現実を受け入れている姿は残念でならない。なぜこれを入れるかは理由がある。動画サイトで「いいじゃないか男だ!」という地元のテレビ局職員が作った唄が動画で流れたときは情けなかった。

 (よっしゃ~もうひとふんばり!頑張るぞ!オーッ!)

頭をさげてさげてはげて 汗まみれ雨の日も風の日も

髪ふりみだし

いいじゃないか男だ 命を燃やしてきた証だ

 

夢を見た描いてた形とはちと違う 身体じゅうムチャのつけたまってる

すぐ泣けてくる

笑い飛ばそう男だ バカ正直に生きてきた笑顔で

 人が作った歌に難癖つけるのはもっとも野暮だと最初に自己批判しておこう。しかし、この歌詞にでてくる男たちはおそらく40過ぎの先が見えかかったサラリーマンなのだろう。ただこのようなすがすがしい態度の前に本当の現実は姿を現してくるのだろうか。現実を矮小化している者たちの前に。「いいじゃないか」とか「馬鹿正直に生きてきた」というのは<現実>に対する和解なのだ。曲にもいろんなジャンルがある、これはフォークソングと呼ばれるものの一種なのだろう。だが、本質はエンターテイメントのなだから、ウソでも演技でももっとカッコよくあってほしかった。

 

 以前に、個人のタイプをおおざっぱに超越者、単独者、民主化した個人、仲間はずれ(スケープゴート)の4タイプに分けた。

 

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  この歌を歌う労働者たちは肩を組んで称えあう。このような風景に対し異和を感じるのが超越者(のつもりでいい)と単独者であろう。

 

 

2.文学者的(単独者的)な現実

 私が信じる現実は自己の根拠を脅かす場所だ。そしてもう一つは超越した場、遊離した場からそこに入るや全く予期せぬ言動、行為を行ってしまう場所のことである。前者はこれは何度も引用しているものだが、坂口安吾のエッセイで「文学のふるさと」というのがあるが、ここで語られているふるさとというのは"現実″なのだ。

 ある農民作家が芥川龍之介のもとにやってきて、貧乏ゆえに子供を殺しドラム缶に入れて焼いたというような話の原稿を渡した。芥川は「実際、そんなことあるのかね。」と尋ねると、この作家は「自分がやった」のだといって放心状態の芥川に対し優越感を抱く。 

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 坂口安吾は、思い上がった農民作家に現実は見えていないとはっきりいう。そして、つき放たれた芥川こそ現実の姿に出くわせたのだと。芥川は‟現実””生活”に根を下ろそうとした単独者なのだ。

 

 

  もう一人の文豪を挙げておこう、森鴎外の『高瀬舟』だ。これは教科書によく出題されるが批評家柄谷行人曰く、これほど誤読されている作品はない。主人公が、病気で苦しむ弟を殺し、島流しの刑に遭うのだがこれは安楽死の是非を問うものではない。

 安楽死の是非などというものは、机上の問題にすぎない。喜助は、殺してくれという弟の願いと殺すなかれという法との二律背反の中で、殺す方を選択したのではない。彼は「夢中で」殺してしまったのだ。そこから考えると、「二律背反」とか「自由意思」とか「選択」というものは行動をスタティックにみるところからくる仮構にすぎないといってよいのである。「政治と文学」や「芸術と実生活」の二律背反というような問題の立て方は、現実に生きている人間の代わりに抽象物を代置させることでしかないが、その種の論者が、鷗外の中にありもしない、‟矛盾”を見出してそれを止揚させたりなどしているのである。

         「歴史と自然」 柄谷行人

 現実というのは意図しなかったことを行う場所であり単独者だけが見出す歴史的出来事なのだ。喜助にとっては弁護も非難も疎遠であって、島流しにされる時の晴れやかな顔は自由意思でなく、やってしまった行為を受け入れることを決めたからだ。

 

 

3.超越者たらんとするものに見える現実

 現実の世界は主に貨幣、数字、言葉で成り立っているがこれは人間の意志を離れて生成しているものだ。(たとえば、自然数について興味深い文献を発見した。英文だが興味のある方は参照してほしい。)ソシュールという言語学者は「言葉に意味はない。差異があるだけだ」「言語は言語についての言語」といった。これは人間が自由自在に使いこなせる道具ではないということだ。数字についてもそう、貨幣も然り。

 

 私は柄谷の著作から彼の人生をずっと後追いしている。70年の三島由紀夫事件、そして右翼左翼の急進主義にも全く現実感を得られなかったという。当時彼は外交的なアンガージュマン作家(五木寛之丸谷才一)らを横目に、内向的とひとくくりにされる古井由吉や後藤明夫らに着目していた。政治参加している作家が本当に希求すべきは「内部の豊饒さ」だったのであり、そして内向的というのは自閉とは全く関係がなく現実に触れようとする方法なのである。このようなことをいった後、柄谷は少し気になることを書いている。

 危機はわれわれが「現実」に背を向けてしまっていることではない。危機はむしろ、われわれが過剰なほど「現実」に接触していながら、その底で致命的なまでに「非現実感」に蝕まれていることだ。しかし、私は外界が何か恩寵のように向こうから否応なく迫ってくることを待機しているわけにはいかない。われわれがなすべきことは、現実を回復する道を自らの「方法的懐疑」によって切りひらくことである。少なくとも氾濫する事実や情報をひとたび括弧に入れる明晰な意志をおいて、「外界への道」は絶たれている、と私は考える。

 これは、単独者の立場ではなく超越者たらんとする立場といえよう。柄谷行人は数年後、かなり抽象的・理論的な仕事に没頭し奇妙な作品に取り組んだ。それが『内省と遡行』『隠喩としての建築』という疲労困憊のすえ未完として終わったものである。

 

 その後、1984年からはウィットゲンシュタインの批評を始め、他者に関する論説を繰り広げたのだが、柄谷の作品の中では幾分解りやすい。ソ連は残っていても実際共産主義という大きな物語は消滅していた、現実に起こる諸問題は相対的立場(単独者の立場)で揚棄するしかないというのだ。だが、現実にソ連が崩壊したときはそうはいっておられず、これまで軽視していたカントを再読し統制的理念を唱えるようになったのだがここでは触れない。

 

 私が、柄谷行人に敬意を表すのはほとんど読まれることのないような『内省と遡行』『隠喩としての建築』を通過したことにある。彼は、『内省と遡行』のあとがきでこう言っている。

 私は積極的に自らを<内部>に閉じ込めようとしたといってもよい。この過程で、私はふたつの事を自分に禁じた。一つは、外部を何かポジティブに実体的にあるものとして前提してしまうこと。なぜなら、そのような外部はすでに内部に属しているからだ。それは、主観性を超えるどんな外的な客観性も、それとして提示されるならば、すでに主観性の中にあるというのと同じことである。第二に、いわばそれを詩的に語ること。なぜなら、それは最後の手段だからだ。そして実際には、ありふれた安直な手段だからだ。私は可能な限り厳密に語ろうとした。いかなる逃げ道をもふさぐために。

 困難はこの二つの拘束から生じている。しかし私は不徹底且つ曖昧な言説にとどめをさすために、この不住で貧しい道筋を積極的に選んだ。したがって私は「内省」から始める方法において可能なぎりぎりの事をやったという自負がある。

 

 

 

文学のふるさと (青空文庫POD(大活字版))

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山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

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内省と遡行 (講談社学術文庫)

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<実無限>としての神 ~数、貨幣

1.発明(でっち上げ)数学の誕生

 ドストエフスキー(1821-1881)の『地下室の手記』の主人公はぶつぶつと独り言で2×2=4であることに文句を言って2×2=5であってもいいではないかと度々言い張ります。2×2=4の確実性が気に入らず、譲歩しながらも認めるのですが、人間は完全への到達は苦手なのだから「2×2=5だって時には、なかなか愛すべきものではないだろうか」などと変な妄想をするのです。

 

 それにしても諸君は、ただ正常で肯定的なもの、つまり泰平無事だけが人間にとって有利であるなどと、どうしてそれほど頑固に、いや誇らしげに確信しておられるのか?いったい理性は利害の判断を誤ることはないのか?人間は苦痛をも同程度に愛することだってありうるわけだ。いや、人間が時として、恐ろしいほど、苦痛を愛し夢中にさえなることがあるのも間違いなく事実である。

 

 ドスエフスキーの作品はこうした歴然とした公理体系をもつ数学に対する反発があるのですが、それには同じロシア人の数学者ロバチェフスキー(1793-1856)の非ユークリッド幾何学への関心があり、彼との親睦もあったというエピソードがあります。それまでのユークリッド幾何学の第五公理、「平行線は交わらない」は真と断言できるのか、これはあくまでも人間の感覚に頼っていて、どこまで行っても交わらないといっているにすぎないのです。それに対して非ユークリッド幾何学「平行線は交わる」と想定しその交差点を、《実無限》という実数として扱うわけです。よって、この数は無際限∞に続くという意味ではありません。この場合は感覚的ではなく形式的という意味での人工的であるのですが、当初の評価は、好き勝手なお遊びで非現実的な世界だとみなされていたのです。同じ人工的なものであるにもかかわらず。しかし、もう一人の遊び人である非ユークリッド幾何学創始者リーマンの「三角形の内角の総和は二直角より大である」という定理からアインシュタイン(1879-1955)の相対性理論が誕生したのです。

 

 

 中には一歩すすんで、ユークリッドの法則によるとこの地上では決して一致することのできない二条の平行線も、ことによったらどこか無限の中で一致するかもしれない、などという大胆な空想を逞しゅうするものさえある。(中略)こんなことはすべて三次元の観念しか持たない人間にはとうてい歯の立たない問題だよ。で、僕は神を承認する。単に悦んで承認するばかりでなく、その叡智をも目的をも承認する。(もっともわれわれには皆目わからないがね)それから人生の秩序も意義も信じるし、われわれをいつか結合してくれるという永久の調和をも信じる。それから宇宙の努力の目標であり、かつ神とともにあるところの道、また同時に神自身であるところの道を信じるよ。つまりまあ永遠というやつを信じるよ。      

       「カラマーゾフの兄弟

 

 

2.数学の自己生成

 この実無限=神の登場はこれ以上の超越がありえない以上世界を閉じたことになります。ただし単一体系・単一規則しか持たない共同体の閉鎖性とは違った意味で。それは内部―外部、本質―現象、真理―幻想といった二分法を無化する空間をもたらしたのです。近代合理主義、人間中心主義では神と人間の二分法でうまく切り抜けてきたのですが、天上、あるいは背後に潜んでいた実無限=神が人間界に入ってくるとこれまでの現実が一変する。ドストエフスキーの研究の第一人者バフチンの言葉を使うとカーニバル世界、デタラメさ、高貴なものと卑俗なものが混在する状況です。実は私たちが生きている世界にもカーニバル世界はあります。資本主義者社会がそうなのです。数多くの商品に共通の本質をもたらした貨幣が、そして天上か背後で体系を体系たらしめていた貨幣が実体として商品と交換されるようになると次のようなことが起こります。

 

それはちょうど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科などなどを形成している獅子や虎や兎やその他すべての現実の動物と相並んで、かつそれらの他に、まだなお、動物というもの、すなわち動物界全体の個体的化身が存在しているようなものである。このようの同じもののすべての現実に存在する種をそれ自身のうちに包括している個体は、動物、神等などのように一般的なものである。

                『資本論』    カール=マルクス

 

もちろん動物界にそんなことが起こればパニックどころか生態系は破壊されますね。資本制社会の場合は恐慌によって一旦は壊滅してしまうのですが・・・。 

 

 話がそれましたが、19世紀に突如現れたけったいな数学によって、2千年以上も安泰とされてきたユークリッド幾何学の自明性は根底から揺さぶられ「数学の危機』と呼ばれる事態に瀕したのです。が、しかしこれまでの平面ベースのモデルを球面ベースのモデルに変換することでこれまで別々で発展してきた両体系が一致することになったのです。数学というのは器の大きい学問ですね。よって平行線が交わることを証明することができます。

 

 

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

労働者対資本家ではない、商品―貨幣が問題だ。

貨幣の性質=自然生成

 

 いわゆる資本主義を打倒するというのなら伝統的な労働者―資本家ではなく商品―貨幣に焦点を置かねばなりません。前者なら主人と奴隷という人間の対立で暴力的なプロレタリア革命を導いてきました。それは主人と奴隷が入れ替わるだけか、より毛沢東スターリンが前衛となる強い国家権力に帰結するだけです。

 そこで後者を考えるなら、資本主義という言葉を用いてはまず駄目です。それは我々のイムズ、理念とは離れたところにある形式関係なのですから。マルクスもいうように、資本は自己増殖運動をするのであり、人間はその人格的担い手にすぎません。この自己は人間の事ではなく資本の事、資本の論理です。貨幣の蓄積は人間の欲望に原因があるとみて、それを計画管理しようとしたのがマルクスの盟友エンゲルスであったともいわれています。マルクス=レーニン主義はいうまでもありません。唯物史観論ならマルクスがいなくてもほかの誰かがやってくれる。だが、彼の最大の功績は「価値形態論」にほかなりません。

 

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 要は、共同体、管理組織から離れた社会的(social)なつながりを形成するには貨幣はなくてはなりません。と同時に資本に転化する貨幣は揚棄せねばなりません。ここでいう社会的とは社会主義とは無縁であるのは言うまでもない、個々人の自由な連帯とそれに付随する責任なのですから。近年、仮想通貨が勃興しつつありますので暖かく見守りたいですね。

 

 貨幣の自己増殖運動について文学者の立場から詳しく書かれていますのでご参考までに。

 

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

 

 

 

マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

 

 

 

交換の原理を掘り下げる

交流、交換のパターン

  話す-聞く  共同体(暗黙のルール、掟)    

読む-書く  非対称性  (基礎の不在、市場的)

売る-買う    非対称性(価値形態論、市場 )

 今回も場所と交換(コミュニケーション)の質について書いておこう。

 

1.貨幣蓄積の本質理由

 売る立場からの逃避が売る立場(貨幣獲得の場)に立たせるというパラドクスがある。貨幣を得ることが売買という不安定な場で優位に立てるからだ。市場は貨幣を媒体に時間的空間的に取引を拡大するが、同時にそこは脅迫的な貨幣蓄積の場でもある。

 

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 文学者としての柄谷行人によるマルクスの価値形態論の解釈は面白い。上のブログ記事でいいたいことは、「貨幣の本質は物々交換の発展の結果ではなくそれが伴う困難さを隠蔽したまま取引を成立させてしまうところにある」ということだ。信用制度での債務不履行はいうまでもないが、貨幣そのものが信用という宗教に根づいている。啓蒙家は「おカネなんて宗教なんだ」というが、それを必要とする現実がある以上それを揚棄しないと解決したことにならない。

宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという教説で終わる。したがって、人間を卑しめられ隷属させられ、見捨てられ、軽蔑された存在にしておくような一切の諸関係を覆せという、至上命令を持って終わるのである。

              カール=マルクスヘーゲル法哲学批判」

 マルクスマルクス主義者でないのはこれでわかる。ところでひと昔前、地域通貨というものが流行した。法定通貨を補完するものも、それの代替を目指すものもことごとく失敗に終わった。宗教批判はまだ終わらないようだ。

 

 

 

2.会社=共同体関係の場

 しかし無産労働者のように貨幣獲得が市場でなく、会社組織内(ムラ)で行われると契約関係とはいえそこには隠微な支配関係ができる。<商品―市場>から<奴隷―主人>に転化するわけだ。所定の場での協業というのは安定しているのだが、ものすごく退屈で人を鬱に追い込むほど窮屈なものである。私も工場現場に従事することが多いのでわかる。単純というものはそこにいる人間の尊厳をことごとく破壊するものである。ロボットが仕事を奪うと悲観する人は多いがその仕事の場が共同体の掟に支配されているのなら彼らは人間を解放することになるのではないか。否応なく自由にしてくれるわけだ。近いうちに、独立小生産者が増えていくかもしれない。それは人を<売る―買う>の市場の場に立たせる。

 

 <売る>者は以前記事にした<書く>という行為と類似していて共通の前提を持たないため苦境に立たされる。買う立場の人間が商品の価値を決定できるように、読む立場の人間が書く側(教える側)の説明をいかようにも解釈できるのだ。

 

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 では、教える(書く)立場からの逃走はどういう形になるのだろうか。それは文字(エクリチュールを持つことに尽きる。文字が貨幣に相当するわけだからそれを得られないと情報社会では生き残れないので暗黙の了解を基にする共同体(学校、会社、ご近所)に戻るしかない。そこにアヴァンチュールがあれば別だがふつうは退屈なのだ。

 

 情報社会は簡単に検索できる便利な世界だと思うと大間違い。そこは<読む―書く><教える―学ぶ>(何度も言うが現存の学校とは無縁)という非対称的関係で苦闘してきたものが圧倒的優位で有益な情報が獲得できるのだ。

 

 

私自身、<教える>の側に立って一つの英語教材を作りました。参考文献として役立てていただければ幸いです。 

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【英文読解の実践~ 独我論】